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21世紀も四半世紀が経とうとしている今日、貨物列車といえばコンテナ輸送がその主役です。コンテナは貨物駅でトラックに積み替え、荷主が指定した場所と時刻に集荷と配送ができるので、かつての車扱貨物と比べて使い勝手がよいメリットがあります。
コンテナ輸送は、輸送する貨物の形状や量に合わせたものを使うことができるのも大きな特徴の一つです。例えば、毎年秋になると北海道で収穫されたタマネギやジャガイモなどの生鮮野菜を輸送するときには、走行中に外気を取り入れることができる通風コンテナが使われます。また、生活廃棄物の焼却灰を輸送するのであれば、20フィートサイズの無蓋コンテナを使っています。
コンテナを選ぶことができるのは、荷主にとって非常に都合のよいものだといえるでしょう。
その一方で、コンテナ輸送はJR貨物にとってもメリットがあります。
使用する貨車はコンテナ車を基本とすることができるので、車扱貨物のような多種多様な貨車を用意する必要がありません。製造コストは量産効果により比較的安価に抑えることができ、保守を担う検修職員もコンテナ車のことを熟知していれば、会社が保有するほとんどの貨車を点検整備ができます。補修用部品も共通化できるとともに、多種多様なものを用意する必要がなくなるので、運用コストも抑えることができます。
このように、コンテナ輸送は荷主、そして運用するJR貨物にとって、多くのメリットがあるといえるのです。
コンテナ輸送は国鉄時代から行われていましたが、その主役となったのは長い鉄道の歴史の中では比較的最近のことで、1984年2月に実施されたダイヤ改正、いわゆる「ゴー・キュウ・ニ改正」からでした。それまでは有蓋車や無蓋車などといった貨車1両単位で荷主に貸し出し、それを使って輸送する車扱貨物が中心だったのです。
このブログでも何度かお話してきたように、車扱貨物は鉄道開業以来続けられていた輸送方式です。荷主は輸送申込みをする貨物取扱駅に貨物を持ち込み、そこで貨車に乗せて発送します。貨車は操車場に運ばれると、そこで送り先方面へ向かう貨物列車に連結され、次の操車場でも同じ作業をするということを何度か繰り返します。経由する操車場が多くなればなるほど輸送時間も多くなってしまい、発送したらいつ送り先に到着するのか予想しにくいという欠点を抱えていました。しかも、1日や2日ではなく1週間もかかることなど当たり前で、時代が流れるとともにこのような輸送は荷主にとって使いづらいものになっていってしまいました。
国鉄時代、1984年2月のダイヤ改正が断行されるまで、貨物列車は車扱輸送が主体だった。原則として、貨車1両単位で荷主が「借り切る」ことで貨物の輸送を引き受けていた。そのため、写真のように多くの有蓋車などを連結して運用されていた。また、ヤード継走輸送方式が主流だったため、これらの貨車の行先はまちまちで、到着駅の方面に向かう列車に連結され、多くの操車場で次の列車に組み込む仕訳を繰り返したため、発送から到着までの時間が多くかかり、到着する日時を確定しづらく中には数日もの時間を必要とするケースもあったという。(©Shellparakeet, CC0, via Wikimedia Commons)
第二次世界大戦後、モータリゼーションの進展は国鉄の貨物輸送に大きな打撃を与えました。1963年の名神高速道路の開通、そして1968年の東名高速道路の開通により、首都圏から関西圏まで高速道路がつながりました。すると、荷主はそれまでの鉄道に代わって、トラックによる輸送をするようになります。トラック輸送であれば、荷主が指定した時刻と場所で集荷してくれるし、送り先までの輸送時間はどんなに多くても1日足らずで済むなど、非常に利便性が高いものになりました。しかも、輸送コストが鉄道と比べて安価であれば、なおさら鉄道から離れてしまうのは当たり前でした。
貨物輸送量が漸減していくと、さすがの国鉄も慌てました。
国鉄は車扱貨物だけでなく、新たにコンテナによる貨物輸送を始めることにしました。コンテナであれば、荷主が指定する場所と時刻に集荷でき、利便性を高めることができると考えたのです。そして、コンテナ貨物は車扱貨物のように操車場で何度も中継するのではなく、発駅から着駅まで直行させる拠点間輸送方式を採用して、輸送時間を大幅に短縮させました。
しかし、国鉄の目論見とは裏腹に、一度離れてしまった荷主はなかなか戻ってきはきませんでした。労使関係が極端に悪化し、頻発するストで列車の運休や遅れが常態化していた鉄道よりも、運賃も安価で輸送時間も短く、何より運休などがないトラックのほうが使いやすかったのです。
こうした流れは、1984年2月のダイヤ改正によって車扱貨物の原則廃止で変わるかと考えたようですが、現実には国鉄がいくら努力しようとも、荷主は鉄道よりもトラックを使い続けたのでした。
1987年の国鉄分割民営化で設立されたJR貨物は、当初の予測に反して貨物輸送量が増加していた。荷主が戻ってきたというよりは、バブル経済によって国内貨物量が増加したため、物流の主役になっていたトラック輸送が飽和状態になり、そこから溢れた分が鉄道に移ってきたといってもよいだろう。JR貨物は貨物列車を増発するなどして対応していたが、宅配便などの小口貨物は集荷したトラックからコンテナに積み替える手間があったため、これを省くためにトラックそのものを貨車に載せて輸送する「ピギーバック方式」を実用化させていた。トラックドライバーが不足する中で、ピギーバック方式は好評だったことからこれに対応した車両の増備をすることになった。写真は分割民営化間もない1991年に門司駅を通過する貨物列車。コキ車に積載するコンテナにはJR貨物になってから製造されらたものや、国鉄から継承したC35形やC21形の姿も見える。(EF81 405〔門〕 門司駅 1991年7月 筆者撮影)
ところが、1980年代後半に入ると日本の経済状況が大きく変わりました。いわゆる「バブル経済」と呼ばれる空前の好景気により、日本の物流が逼迫するほど貨物の輸送量が増加し、それを支えるトラックのドライバーが不足する事態になりました。このことは、荷主が離れていった鉄道貨物輸送にも大きな影響を及ぼし、コンテナ貨物を中心に輸送量が増加に転じたのでした。
増加した貨物の中には宅配便などの混載貨物もあり、当時はコンテナに積み替える手間と時間から、すぐに鉄道へシフトすることが難しいと考えられました。また、深刻なドライバー不足から、監督官庁である運輸省もモーダルシフトを推進したことで、鉄道貨物輸送にとっては追い風になっていったのでした。
そこで、国鉄はそれまでの考え方を大きく転換させ、従来は商売敵ともいえたトラックをそのまま貨車に載せて輸送し、トラックドライバーの不足を補うとともに、さらなる荷主の取り込みをしようとピギーバック輸送をするために、クム80000形を製造してこれに対応しました。
《次回へつづく》
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