いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。
このタイトルをご覧になって、「懐かしい」と思われた方は、恐らく古くから東横線・目蒲線沿線にお住まいの方か、筆者と同年代くらいのファンの方だと思います。
多摩川園駅は、現在ではその名を変えて多摩川駅と名乗っています。2000年に行われた目蒲線の運転系統を目黒線と多摩川線に分離した際に、現在の駅名に改称されました。
いえ、正確には開業当初の駅名に戻ったといった方がいいかも知れません。
多くの私鉄では、鉄道を開業させると集客に必死でした。沿線の土地を分譲したり開発したりして、利用客を増やそうと必死になっていました。そして、駅には自社系列のスーパーマーケットやタミーナル駅では百貨店を構え、住民や利用者の生活必需品などを販売しました。さらには、休日における鉄道利用の促進とレジャーの提供として、遊園地を開業させたり、映画館や観劇場なども手がけていました。
こうした私鉄の事業展開は、東西を問わずに行われていました。関東でいえば、ほとんどの大手私鉄では百貨店事業を営んでいました。遊園地などのレジャー事業も、既に閉園してしまいましたが小田急の向丘遊園や、西武鉄道の西武園ゆうえんちが有名です。
東急電鉄も小規模ながら遊園地を運営していた時期がありました。
この多摩川園駅もまた、東急電鉄が運営する遊園地「多摩川園」の最寄り駅として機能していました。もちろん、田園調布駅-多摩川園間は東横線と目蒲線が並走するので、横浜・桜木町方面からの目蒲線に乗換駅としての面もありました。
さて、こちらの写真は1986年頃の多摩川園駅です。
今日の多摩川駅は、東横線と目黒線のホームが高架橋上にあり、多摩川線は地下にホームが設けられていますが、この写真はまだ地上にホームがありました。そして、東横線の上りホームは単独の対向式ホームで、下りは目蒲線上りと共用する島式ホームでした。
雨が降っていたのでしょう、線路や屋根がないホームは濡れていました。この頃、筆者は一眼レフカメラのような高級なものは持っていなかったので、この写真はコンパクトカメラで撮ったものだと思われます。それにしても、雨で光量が足りない環境で、よくもこんなにきれいに撮れたとは驚きです。
その雨が降ったいえるか雨上がりのあとの中、8000系(8039F)が渋谷に向かって発車していくところでした。すべてステンレス鋼の地色のままで、コルゲート板を取り付けた側面は、こうしたアングルでもよいアクセントです。
この頃の東横線は、渋谷駅-桜木町駅間で運用される列車は、原則として20m級車体をもつ8000系か8500系、そして8090系でした。最もスタンダードなのは8000系でした。ただ、この頃の8000系は増備の途中で、8両編成と7両編成が混在していました。7両編成は各駅停車専用で、8両編成は急行としても運用されたようです。ただ、急行は8本来の働き場である田園都市線ではなく、8両編成を組んで東横線で運用されていた8500系や、急行専用として開発された8090系が主に宛がわれていました。
1986年当時は、まだ前面に巻かれる警戒色としての赤帯はなく、ほぼ製造時の姿を保っています。方向幕は黒地に白文字のものに交換されていたので、既にこの頃には自動式の方向幕が使われていたのだと思われます。そして、車掌台側の窓には運行番号表示器、窓下には急行標示板の止め金具がありました。
運転士席の窓を見ると、左下に小さな白いプレートのようなものが貼られているのが見えます。ここには、車内から見て「8」または「7」の数字が書かれていました。7両編成か、8両編成かを識別するためのもので、1988年頃に全編成が8両編成になるまで取り付けられていました。
ところで、写真に写るクハ8040は、一時期田園都市線を走っていたことがありました。新玉川線(現在の渋谷駅-二子玉川駅間)が開業し、8500系が増備されましたが、本来であればT車であるサハ8900をつくって組み込むところを、新製車両を抑制するためにクハ8000を中間に組み込んで対応したのです。
そのため、クハ8040も8624Fの中間に組み込まれた経歴があり、前面の貫通扉も活用されたとか。いまでは中間に先頭車を組み込むことを嫌がりますが、この当時はいろいろな事情もあってこうした編成もあったのでしょう。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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