旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 「目蒲線」が走っていた頃の「多摩川園駅」【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 筆者の住まいからほど近い元住吉の車庫(元住吉検車区)には、数多くの車両が並んでいます。東急電鉄の5050・5070系をはじめ、東京メトロの17000系、東武9000系など、自社、乗り入れ他社局の車両が日中はずらりと並んで足を休めています。

 たまに買い物などで、元住吉検車区の前を車で通りかかると、後ろの座席にいる娘は興味津々に外を眺め、「あ、金色の電車がいた。茶色いのもいるよ〜」と教えてくれます。金色は5050系4000番代の「Hikarie号」、後者は東京メトロ17000系を指していますが、こうした車両は幼い子どもにもすぐに分かるものです。

 一方、目立たないといえば、目黒線用の5080系です。見た目は5050系とまったく同じで、幕板部の帯の色が紺色になっていることと、東横線用が10両また8両編成であるのに対して、5080系は6両編成なので正面から見ただけではわかりにくいものです。ところが、最近、この5050系に「8CARS」のステッカーが貼られ始めました。

 令和4年度中に開業を目指して工事が最終段階に入った新横浜線(仮称)を介し、相模鉄道と直通運転を開始する時には目黒線も8両編成になり、輸送力が向上します。そのための準備として、総合車両製作所で製造された5080系の中間車を組み込み、8両編成へ替えられ始めていました。

 さて、その目黒線は、ご存じの方も多くいらっしゃるとは思いますが、以前は「目蒲線」と呼ばれ、目黒−蒲田間を結んでいた東急電鉄鉄道路線で、今日のように多摩川を越えて神奈川県内には入らず、東京都内で完結していました。

 現在のような運転系統になったのは2000年のことで、東横線の混雑緩和を主な目的とした複々線化事業の完成と、営団地下鉄(当時)南北線都営三田線相互直通運転を開始するにあたって、多摩川園駅(当時)で系統分離し、日吉駅まで乗り入れるようになったのでした。

 それまでは、東横線と並走するのは田園調布−多摩川園間だけで、それも当時は東横線複々線を構成する形で地上を走っていました。

 写真を撮影したのは1985年頃と思われます。雨の日でしたが、目蒲線にはライトグリーン一色に塗られた普通鋼製の車体をもち、旧式の吊り掛け駆動の3000系と呼ばれる電車たちの独壇場でした。

 

雨の多摩川園駅を目黒に向かって発車していくデハ3415。更新改造によって張上屋根となり、前部標識灯と後部標識灯はユニット化されて、前面窓下に移された。これによって、深い丸屋根と前部標識灯がなくなったことで、その丸みはさらに表徴されて「海坊主」と呼ばれるようになった。吊り掛け駆動で戦前製の旧形電車ではあったが、装備している電装品などは「優秀品」で揃えられていたこと、東横線など一線級の路線で活躍の場を失っても、目蒲線や池上線のように3000系が活躍するのに適した路線があったこと、さらには後から登場した5000系が地方私鉄に譲渡されたことで、長く運用される結果になった。ホームはコンクリートタイル張りで、上屋も中央部だけで先端部は屋根なしなど、1980年代頃の駅の様子がよくわかる。(デハ3514 多摩川園駅 1984年6月頃 筆者撮影)

 

 旧3000系の車両は形式が非常に多岐にわたり、かつ少々複雑でした。というのも、その出自によって大きく分けることができますが、これは、東急が歩んできた歴史にも大きく関係し、もともとは異なる会社であったことを証言しているようなものでした。

 目蒲線を建設開業させた目黒蒲田電鉄、池上線を開業させた池上電気鉄道、そして東横線を開業させた武蔵電気鉄道(後に東京横浜電鉄へ改称)と、異なる会社が吸収合併を繰り返して一つの会社となったためでした。

 例えば、デハ3100は東横電鉄のデハ100で、鋼製車体にリベット打ちで組み立てた半鋼製車でした。丸屋根をもつなど、当時の電車としては近代的な外観でしたが、竣工直後に目黒蒲田電鉄に譲渡されてしまい、東横線での運用には就きませんでした。後に、目黒蒲田電鉄から東横電鉄に再び譲渡されて、ようやく本来の目的だった東横線での運用に使われるという、数奇な運命をたどりました。

 デハ3400も目黒蒲田電鉄が製造した車両で、当初はモハ500という形式が与えられていました。デハ3100と同じくリベット組み立て車体をもっていましたが、こちらはリベットが非常に目立つものだったといいます。モハ500は川造形車体とよばれるもので、深い屋根が特徴でした。後に東京急行電鉄になった際にデハ3400に改番、晩年はアイボリーを基調にしたカラフルなカラーリングで、こどもの国線専用車として運用に就いていたので、多くの人が知るところでしょう。

 3000系の中でも最も知名度の高いデハ3450は、戦前製の電車としては高出力の主電動機を装備した高性能電車でした。東横電鉄と目黒蒲田電鉄のモハ510として製造されたことからもわかるように、両者は異なる会社でありながら、共通した車両を製造するなど、いわば「姉妹会社」のようなものでした。大東急合併時にデハ3450に改番、高性能オールステンレス車が続々と導入される中で、目蒲線と池上線で最後まで走り続けた吊り掛け車の一員でした。

 さて、今回の写真に写るのは、雨の日の多摩川園駅から目黒に向けて発車していくデハ3500です。雨に濡れたホームはコンクリートタイル敷き、ホームの上屋も現在のように端まで延ばされていない、1980年代頃までよく見られた上屋なしのホームと、昔日の光景です。

 当時、東横線目蒲線が並走していたのは田園調布−多摩川園間で、すべて地上を走行していました。また、田園調布の構内には東横線目蒲線を転線するための渡り線も設けられていて、元住吉検車区に所属する車両が全般検査などで長津田工場へ回送するときには、この渡り線を使っていました。

 

《次回へつづく》

 

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