旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

悲運の貨車〜経済を支える物流に挑んだ挑戦車たち〜 時代に翻弄され短命に終わったタンクピギー・クキ1000【3】

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〈前回からの続き〉

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 タンクピギーはこれまで何度も述べてきたように、慢性的な渋滞により埼玉県などの内陸部への輸送が困難となっていたことと、バブル景気により物流が盛んになったため、トラックドライバーが不足していたことが背景になり、新たな輸送手段として開発されたものでした。

 しかし、1994年に首都高速湾岸線が大黒JCTと空港中央の間で開通すると、それまで横浜から東京都心へ向かう主要ルートであった首都高速横羽線の渋滞が緩和されていきました。首都高湾岸線も片側3車線という大容量の道路だったので、流入してきた車が渋滞を引き起こすことはほとんどありませんでした。

 また、1991年頃からはバブル景気も崩壊し、世の中は不況となっていきました。企業の設備投資も抑えられ、ガソリンなどの石油類の需要も落ち着いてしまいました。そうした中で、物流も減少していったため、ドライバー不足も解消に向かっていきました。

 一方、タンクピギーの強みでもあったコストメリットも失われていきます。

 ビギーバック輸送を含め、鉄道による貨物輸送は一度に多くの貨物を大量に輸送できることにあります。タンクピギーにはクキ10001両に付き2台のタンクローリーを載せることができるので、18両編成では36台のタンクローリーを載せることができます。言い換えれば、36人のトラックドライバーが必要だったのを、たった一人の機関士が運転するだけで済むので、人件費の抑制に繋がります。

 また、同じ台数分のトラクターも必要でした。もちろん、これだけの台数分のトラクターを維持するには、それなりの費用が必要です。自動車税に検査に必要な経費、自動車保険料などなど、とにかく経費がかさみます。また、それを動かすためには燃料もひつようでした。

 そのため、これらの経費を大幅に軽減できると期待されたのが、タンクピギーだったのです。しかし、1990年代になると、世界的に景気が悪化したことを受けて、原油価格が下落していきました。1バレルあたり10〜20ドルという低価格は、石油会社にとっても痛手になったのです。

 タンクピギーの場合、往路は石油類を載せているタンクローリーの重さで貨物運賃が計算されます。これには、積荷である石油類だけではなく、タンクローリーの車体重量の分も含めて計算されます。ところが、復路はタンクローリーは空の状態で載せて、製油所まで返送しなければなりません。その復路では、空になったとはいえ、タンクローリーの重量分が貨物運賃として計算されるので、荷主にとってはメリットのない「持ち出し」になってしまっていたのです。

 こうしたこともあり、ただでさえ原油価格が下落して、石油小売価格も安くなって利益が減少していたにもかかわらず、復路の返送ではタンクローリーの運賃がかかってしまい、コスト的にも見合わないものへとなってしまったのでした。

 そこへ、問題になっていた渋滞も解消され、トラックドライバーも確保しやすくなると、もはやコスト的に見合わないタンクローリーを鉄道で輸送するメリットは失われてしまっていました。

 

クキ1000は最盛期で18両編成という長大編成を組む専用列車にまで成長した。しかし、バブル経済の崩壊や1990年代の原油価格の下落など様々な要因が重なり、タンクローリーを鉄道で輸送するメリットが失われ、運転開始から僅か5年足らずで廃止になり、クキ1000も用途を失ってしまった。出典:Twitter ©expresstokiwa

 1996年3月のダイヤ改正をもって、タンクピギー輸送は廃止となりました。1992年2月の運転開始から、わずか4年1か月という短さで、その役割を終えてしまったのです。

 大きな期待を背負って登場したクキ1000も、製造から5年にも満たずに用途を失いました。タンクローリーを載せるために特異な構造であったため、他に転用もきかないことや、所有が日本石油である私有貨車であったこともあり、その年の10月には全車が廃車となり解体されてしまいました。車齢も平均で4年ほど、長くて5年という短さは、民営化以降に開発された営業用の貨車の中では群を抜いた短さだったのです。

 バブル景気という時代に要請されて開発・登場したクキ1000。本来なら1991年の秋には運転開始をする予定が、この年の秋に襲来した台風によって、武蔵野線小平駅が水没し長期に渡って不通になるという事態が起き*1そのため運転開始が送らされてしまいました。出鼻をくじかれた形なり、ようやく登場し、そして営業運転に就いた頃にはその好景気もはじけて不景気に転じてしまい、そもそもの開発理由であったドライバー不足と渋滞回避といった課題も解消され、加えて原油価格の下落という外的要因もあって、逆にコストがかかるという存在意義を失われてしまうという、まさに不景気という時代に翻弄された短い歴史だったといえるでしょう。

 今日、このような得意な貨車は存在しません。JR貨物も多種多様な車両を保有するよりも、同じ形式の車両を集中的に保有するほうが、コストも掛からず効率的な運用ができることを知っています。

 しかし、クキ1000が開発された当時は国鉄の輸送形態から脱却はできていたとはいえず、こうした特殊な輸送に適合した貨車を造るほうが良いという考えでした。1990年代にはこうした、車扱輸送の考え方による貨車も存在していましたが、その後はご存知の通り車扱輸送を段階的に廃止し、化成品も含めて多くはコンテナ輸送へとシフトさせていきました。

 一方、石油類については法的な制約などもあり、今もなおタンク車による輸送が続けられています。タンクピギーはそうした中で試作的な要素を多く含んでいたとも考えられ、今日の効率的な貨物輸送の方向性を指し示したと考えれば、短命ながらもその意味はあったと考えられるでしょう。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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*1:この年の8月の記録的な長雨となり、駅周辺の地下水含水量は多く、そこへ平成台風21号がとどめを刺す形になった。新小平駅は掘割構造のため、含水量の限界を超えた地下水は壁面から漏水・流入し、駅自体を水没させてしまった。この復旧には当初6か月が見込まれたが、東海道方面と東北・上越・中央方面を結ぶ日本の物流にとって重要な路線であったことから、JR東日本は24時間体制で復旧工事を進め、水没から2ヶ月後の12月11日に復旧させた。この間、貨物輸送は大きな打撃を受け、景気の悪化によって輸送量が減少していたところへ、さらなる輸送量の減少に拍車をかけた形になった。余談だが、筆者が入社したその年のことであり、ようやく冬季の賞与が満額貰えると喜んでいたが、輸送量の極度な減少による収入悪化のため、賞与も減額されて支給されたという苦い経験がある。