〈前回からの続き〉
「タンクピギー」の構想はJR貨物ではなく、石油類では最大の顧客でああった日本石油(当時、後にニッセ三菱→新日本石油→JX日鉱日石→ENEOS)によるものでした。*1日本石油は需要の拡大によって、大量の石油類を精製・販売していましたが、需要に対して製品の輸送能力が逼迫していることや、バブル景気のためにタンクローリーのドライバーが不足していること、そして運べても激しい道路渋滞で時間がかかってしまうという課題を抱えていたのでした。
そこで、タンク車に載せるのではなく、製油所でセミトレーラー式のタンクローリーに直接積んで、そのまま貨車に載せて送り届けるという方法を考案したのです。これなら、一度内陸部にある油槽所で積み替える必要もなくなり、油槽所から遠い地域では、そこに近い貨物駅からタンクローリーを直接供給先へと走らせればいいのです。加えて、ドライバーの数も抑えることができ、何より渋滞もないので予定した時刻に到着できるメリットがあったのでした。
こうした構想のもと、1989年に国鉄から継承したISO規格コンテナ専用のコンテナ車であるコキ1000を改造した試作車、クキ900が試作されたのです。そもそもクキ900が施策されるより前、国鉄時代にもタンクピギーの研究は進められていましたが、その際にチキ6000を改造して実験が行われていました。本線走行を想定しない簡易な改造で、名古屋臨海鉄道で実験を行った結果、コスト的なメリットが有ることや、ガソリンを満載したタンクローリーを載せて走行しても問題がないことが確認されていたのでした。
クキ900試作車では、後に量産車として登場するクキ1000とは異なる点がありました。クキ900を改造した当時、消防法では石油を積載したタンクローリーは、トラクターから切り離すことを認められていませんでした。そのため、クキ900はトラクターを連結した状態のタンクローリーを乗せる方法を採り、積み卸しにはク5000と同様に専用のランプウェイから自走で貨車に乗り降りすることになりました。このため、クキ900には1台のタンクローリーを載せることができたのです。
しかし、これでは輸送効率が低く、トラクターの重量も運賃に加算されてしまうため、荷主としてはできる限り多くの貨物を安価に運びたいのが本音です。
そこで、本格的な量産車として、1991年に20キロリットルタンクローリー2台または14キロリットルタンクローリー3台を積載できるピギーバック用車運車であるクキ1000を新製したのでした。
クキ1000は全長20,400mmと、標準的なコンテナ車であるコキ50000とほぼ同じ寸法でした。積載荷重は44.4t、自重は20.4tでコキ100系に採用されたFT-1の枕バネを改良したFT-1-1を装着。ブレーキ装置も応荷重装置付のCLブレーキを装備し、最高運転速度は110km/hとコキ100系と併結できる性能をもっていました。
タンクローリーピギーバック専用のクキ1000。日本石油のタンクローリートレーラを積載した状態で、2台のタンクローリーを背中合わせの状態で積んでいた。出典:Twitter ©Syasタンクローリーピギーパック用クキ1000-1 1両も全般検査を受けることなく終わった短命な形式。台車はコキ104の新製車に転用された #火曜日の貨車 pic.twitter.com/O25O7WUUfw
— 湯島のとも (@Syas) November 27, 2017
車体構造は他のピギーバック用車運者とは異なり、できるだけ重心を低くすることができるように、トレーラーのタイヤ部は連結面より低くなるように則梁の高さを540mmまで下げ、中梁の高さは870mmという特異なものになりました。これは、高速でカーブを通過するときに、重心が高いと遠心力の作用でタンクローリーが荷崩れを起こして横転・転落することを防ぐためでした。万一、荷崩れを起こして貨車から落下してしまったときには、タンクローリーが破損して積荷のガソリンが流出しようものなら深刻な被害が出てしまい、最悪の場合は火災や爆発事故なんてことにもなりかねません。
クキ1000は従来の4tトラックを使ったピギーバックとは、荷役の方法も異なりました。従来のピギーバックは積載されるトラックは自走して貨車に載せられましたが、クキ1000に載せられるタンクローリーは、駅までやってくるとトラクターから切り離され自走することはできなくなります。
本来であれば消防法で石油類を積載したタンクローリーをトラクターから切り離すことは禁止されていましたが、クキ1000が登場する頃には法改正により鉄道で輸送する場合に限って、この禁止が除外されていました。
トラクターから切り離されて動力のなくなったタンクローリーは、駅に配備されているリーチスタッカーと呼ばれる荷役機械に吊り上げられ、コンテナと同じような方法で貨車に載せてもらうのでした。
さて、こうして荷役の方法も確立し、法的な規制も緩和によって除外され、いよいよピギーバックによるタンクローリー輸送が1991年から始められました。すでに入社間もなかった筆者のような末端の鉄道マンにも、このタンクピギーバック開発の話は聞こえてきていたので、JR貨物と荷主の力の入れようが窺い知れます。そうした期待も大いに込められての登場だったのです。
荷主は国鉄時代から模索していた日本石油で、主に横浜市にある根岸製油所で精製されたガソリンを運ぶことでした。根岸といえば、いまも根岸駅を拠点に関東とその近隣にタンク車を使った石油類を発送していますが、クキ1000が登場した当時はこのタンク車を使った輸送でも需要を満たせなかったこと、慢性的な渋滞に悩まされていたことはすでにお話したとおりです。
1992年2月から、このクキ1000を使ったタンクピギーの運転が始められました。渋滞を回避し、定時制も高く、そして慢性的なドライバー不足とで内陸部への石油類を安定的に運ぶ切り札として、クキ1000によるタンクピギー輸送は荷主はもちろん、JR貨物も新たな貨物輸送の形としての期待も大きいものでした。実際、筆者にも配られた社内報にも大々的に取り上げられ、クキ1000とタンクピギーを取り扱う貨物駅で荷役に使われるリーチスタッカーの写真は目を引くものであり、そして大きな関心を抱いたものでした。
タンクピギーは、当初は横浜本牧駅と武蔵野線・新座貨物ターミナル駅間で始められ、1列車には数多くのタンクローリーが載せられていました。1日1往復と運転される本数こそ少ないものの、積荷であるガソリンなどを途中でストックする油槽所が必要なく、製油所から卸先でもあるガソリンスタンドへダイレクトに運ぶことができるメリットもあり、1992年6月からは越谷貨物ターミナル駅も着地に加えられ、最終的には1列車18両編成という長大な列車にまで急激に成長していきました。
また、クキ1000は全部で20両が製造されましたが、所有者は荷主でもある日本石油の関連会社でもある日本石油輸送(JOT)が保有する私有貨車となりました。こうしたあたりは、従来のタンク車の手法そのままだったので目新しいことではありませんが、同じピギーバック輸送をするクム80000やクム1000が通運事業者である日本フレートライナーが所有していたのとは対照的でした。
こうして内陸部への石油類輸送の切り札として運転が始められたタンクピギーでしたが、残念ながら長続きはしませんでした。
《次回へつづく》
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