《前回からのつづき》
1990年代に入る頃、自動車のサイズは大型化の傾向にありました。「ハイソカー」と呼ばれたトヨタ・マークⅡや日産・スカイラインといった人気のあった自動車は、カートレインに乗せることができるサイズを超えていました。これに収まるのはトヨタ・カローラや日産・サニーといったいわゆる大衆車と呼ばれる車種でしたが、筆者が記憶している限りこの時代にこの種の車はそれほど人気はありませんでした。かく言う筆者自身も、初めて購入したマイカーは日産のステーションワゴン(この種の車自体が、いまでは過去のものですが)であるアベニールだったので、もし、カートレインに載せようとしても断られたでしょう。こうした自動車側の事情の変化もあって、運行開始当初の人気ぶりはすっかり影を潜めてしまったのでした。
1980年代終わり頃から、自動車の大型化が進み始めた。かつては5ナンバーサイズにが当たり前だったのが、自動車税制の改正によって排気量2000ccを超える車の課税額が安価になり、各社はこぞって2500ccクラスの車を市場に出していった。加えてバブル経済の影響もあり、少しばかり価格は高価であっても、税金はそれほど高くなく、なによりパワーもあり5ナンバーサイズよりも快適な車内空間のある3ナバーサイスに人気が集まっていった。この自動車のサイズアップなどの変化が、1980年代半ばに商品開発されたカートレインの積載サイズに合わなくなったことで、運行開始当初の人気も影を潜める遠因となったといえる。(©Toyotacoronaexsaloon, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
加えて、長時間に渡り乗車しなければならない列車の宿命として、乗客の食事の問題もありました。寝台特急であれば、食堂車が連結されたり車内販売が行われたりするなどして、乗客への供食サービスがありました。なくても、途中の停車駅である程度時間を取ることにより、売店などで弁当や飲み物を購入することも可能にしていました。
ところが、カートレインは途中の停車駅は設定されないばかりか、食堂車は無理にしても車内販売すらなかったのです。15時間以上という長時間にわたって、言葉通り「缶詰」にされる乗客は、乗車する前にあらかじめ食事などを購入しておかなければならず、万一忘れるなどした場合、終着駅までずっとお腹を空かせたままの長旅を強いられることになりました。
このあたりは、新たなサービスを開発したものの、ハードウェアの面では優れていたものの、ソフトウェアの面では詰めが甘かったというか、乗客本位になりきれなかったという、国鉄の悪い一面が表に出た形だったと筆者は考えています。
また、このような長距離列車の運行は、民営化後に設立された旅客会社によっては「旨味のない」厄介な存在になってしまったことでした。寝台特急やカートレインのように、旅客会社を複数に跨って運行される列車は、各社の管内にある線路上を走った距離に応じて運賃等の収入を配分する方法が採られていました。
この方法では、最も多く配分を受けるのは、管内の全線を走ることになるJR東海(熱海―米原)とJR西日本(米原―下関)であり、JR東日本は汐留(恵比寿、浜松町)―熱海間の100km程度、JR九州に至っては下関―東小倉間の10kmにも満たない短さで、受け取ることができる配分が最も少なくなっていました。
20系客車時代はその豪華な設備を誇った車両を数多く連結していたことから、「殿様あさかぜ」とまで言われた名列車だったが、新幹線の開業、高速バスの台頭、そして航空機の大衆化などによって、次第の寝台特急の需要そのものが減っていったことで、凋落の一途を辿った。24系25形化によってその映画は過去のものとなり、その設備は他の列車と変わりないものになってしまう。分割民営化後も列車自体は残されたが、運賃収入の配分をめぐって最終区間を受け持ったJR九州には利がなく、負担ばかりが大きいことから列車の運行そのものを続ける気を失っていた。結局、1994年のダイヤ改正で、博多乗り入れの2往復が臨時列車に格下げ、東京対九州寝台特急の先陣を切って事実上の廃止に追い込まれた。そして、これが引き金になって寝台特急をはじめ長距離夜行列車が衰退し、最後は全滅に至るまでの歴史を刻むことになる。(©Atsasebo, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
しかも悪いことに、JR九州は東小倉で発着するため、到着した列車の機回しをしたり、折り返して上り列車として運転されるまでの間は近傍の車両基地へ回送して留置したりした上で、車両の点検や整備、客室内の清掃整備など様々な作業を担当しなければなりません。分配が極端に少ないにも関わらず、やるべきことが多い列車は非常に厄介なもので、これらの作業などに多額のコストを掛けなければなりませんでした。
こうしたJR九州にとって「旨味」が非常に少ない列車を、ただ単に厄介者としか映らなかったのでしょう、早急に整理廃止の対象にしたかったと考えられます。配分される収入は最小限でありながら、手間と人員、そして費用ばかりがかかる「嫌な部分」を押し付けられ、本州三社の「下請け」のような列車の運行は、利益を追求する民間企業となったJR九州としては続けたくもなかったのです。
折しも浜松町駅で都営地下鉄大江戸線の工事に伴って、浜松町―東京貨物ターミナルを結んでいた「大汐線」と呼ばれる貨物支線を廃止にせざるを得なくなったため、1994年の運行シーズンを最後に、1一緒に旅をする自動車を積んで走ってきたカートレイン九州は、この時を最後に僅か9年間という短命で姿を消していきました。
《次回へつづく》
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