《前回からのつづき》
この二つの列車のように、乗客と自動車を同時に運ぶという列車は、北海道方面にも運行されました。
分割民営化の翌年である1988年に、JR東日本とJR北海道は、九州方面に向かうカートレインの盛況を見て、新たな列車を設定することにします。折しも長年の悲願であった青函トンネルが開通し、本州と北海道の間を鉄道で結ばれたことから、鉄道を使った北海道旅行がブームになったのも後押ししたと考えられます。
新たに設定されたカートレイン北海道は、カートレイン九州と同じくワキ10000形を自動車を載せる車両に充てました。そして、乗客を乗せる車両は、カートレイン九州が20系だったのに対して、こちらは24系を4両(B寝台3両+電源車)を充てました。
24系のB寝台車は、製造当時は3段式でしたが、2段式の24系25形が登場すると接客設備の面で不利になったことなどから、国鉄時代にすべて2段式に改造されていました。寝台幅こそ20系のオロネ21形の1000mmよりも狭い700mmですが、寝台の上下間隔は広く取られていたため、居住性はある程度確保されていました。
カートレイン北海道は、恵比寿駅ー白石駅間で運行が始められました。後に、東京側の発着は浜松町駅に移りますが、その理由はカートレイン九州と同じだったと考えられます。
しかし、他のカートレインと同様に、カートレイン北海道も長くは続きませんでした。
そもそも、この列車が発着する時刻は、他の列車とは大きく異なっていました。下り列車の始発になる恵比寿駅は14時48分発で、終着の白石駅には翌日9時22分着と所要時間は18時間34分と非常に長かったのです。これだけ長い時間、列車に乗っているとなると、やはり食事などの問題に直面します。

青函トンネルの開通は、日本の鉄道にとって大きな転機となった。それまでは、青森まで列車に乗り、ここで青函連絡船に乗り継いで約4時間ほどの船旅のあと、函館から道内各地に向かう列車に乗り換えるといった、ある意味壮大な旅だった。しかし、本州と北海道が鉄路でつながったことによって、東京(上野)や大阪から直接北海道へ乗り入れる列車が設定されると、大きく様変わりしたといえる。これらの列車は従来の寝台特急にはなかった豪華な設備をもった車両で運行されたことで、「北斗星」と「トワイライトエクスプレス」は一躍人気の列車となり、その切符を買うことは非常に困難だった。列車を運行するJR東日本とJR北海道はこの人気にあやかり、需要を満たすとともにさらに増収を目指し、マイカーを同時に運ぶことができるカートレイン北海道を運行させた。(出典:写真AC)
カートレイン北海道も他の列車と同様に、食堂車など供食設備を備えた車両は連結されませんでした。もっとも、東京・九州間で運行されていた寝台特急も、食堂車は連結しているけど営業は休止ないし廃止されている列車もあったので、これは望むべくもないといえるでしょう。
ならば車内販売ならあるのではと考えてしまいますが、どうやらこれもなかったと考えられます。カートレイン九州などの実態からすれば、そうしたサービスが提供されていなかったと考えるのが自然かもしれません。
そのため、乗客はあらかじめ弁当や飲み物などを購入しておく必要がありますが、18時間以上にわたる長時間の乗車となると、その他のもの、例えば車内で食べる菓子類といったものも用意しておかなければなりませんでした。
また、列車の発車時刻もまた、夜行列車としては非常に早い設定でした。夜行の長距離列車の多くは夕方あるいは夜間に発車するのがほとんどでしたが、カートレイン北海道は昼間の14時台と極めて早かったのです。
これほど早い時刻に発車するとなると、その利便性にも影響を与えたといえます。
青函トンネルの開通によって運行が始められた寝台特急「北斗星」は、上野駅の発時刻は夕方と夜間に設定されていました。一番早く上野を発車する札幌駅行き「北斗星1号」は16時50分発、その次の「北斗星3号」であれば19時03分発に設定されていました。
「北斗星1号」に乗るのであれば仕事を早めに切り上げて上野駅に向かえば間に合いますし、「北斗星3号」なら仕事を終えてから上野駅に行けば十分に乗ることができたといえます。
しかし、カートレイン北海道は14時台の発車なので、その日は午前中で仕事を切り上げるか、朝から休暇を取らなければ乗ることができません。自動車の積み込み時間を考慮すると、発車時刻直前に行けばよいのではなく、貨物列車と同じように〆切時刻までに駅に行かなければなりません。そうすると、これよりももっと早く、13時台には発駅で乗車手続きを済ませておかなければならなかったと考えられます。
この14時台に発車時刻が設定された理由としては、発駅が山手線の駅であったことが影響しているといえます。恵比寿駅にしても、後に移った浜松町駅にしても、東京の過密路線といえる山手線を走行しなければなりませんでした。
《次回へつづく》
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