旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【4】

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《前回からのつづき》

 

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 カートレインの乗客用として再び表舞台に立つことになったのは、開放式のA寝台車であるナロネ21形でした。プルマン式と呼ばれるナロネ21形は、中央に通路を備え、その両側にレール方向に寝台を設置できる構造でした。そのため、昼間は向かい合わせのボックスシートとして使え、夜間は向かい合った座席を引き出して下段寝台に変形させるとともに、上段寝台は、窓上に収納されていた舟形の寝台を下に降ろすことで使えるようになります。

 この構造のため、寝台幅は1000mm=1mという余裕のある広さになりました。このサイズはちょうどシングルベッドとほぼ同じで、B寝台の520mmのほぼ倍の大きさになりました。

 これだけの大きな寝台を備えた車両であれば、カートレインの乗客も、夜は快適に過ごすことができたでしょう。

 その一方で、A寝台であるがゆえに、寝台料金は三段式B寝台よりも高くなってしまいました。カートレインを利用する乗客は、運賃のほかに自動車を輸送するための手荷物運賃を支払わなければならず、さらに積み増しをするかのようにA寝台の料金を払う必要があったのです。

 とはいえ、これでは高い運賃などを払わなければならないとなると、カートレインの需要に水を差すことになります。そこで、できるだけ多くの利用者を取り込みたかった国鉄は、カートレインを特急ではなく急行として設定したと考えられます。

 急行であれば、特急と比べて急行料金は安価に設定されています。乗客は運賃のほかに、急行料金とA寝台の寝台料金を払わなければなりませんが、カートレインの場合、発駅から着駅まで停車する駅はないので、全区間の運賃と急行料金を必要としますが、乗車距離は201kmを超えるので、急行料金は1320円で済みます。

 仮に特急として運行された場合、特急料金はA料金が適用され、乗車距離は601km以上となるので通常期は3500円となりますが、そこから指定席分を差し引くと3000円になります。そして、寝台料金はA寝台になるので、下段は11000円、上段であれば10000円になりますが、二段式B寝台は6000円だったので、やはり安価な急行にしたところでその差額は吸収しきれないことから、カートレインは割高な列車だったといえるでしょう。

 

プルマン式の寝台を備えるナロネ21形は、昼は4人掛けのボックスシートとして、夜は座席上の収納された寝台を下ろして上段とし、下段は座面を前方に引き出すと背ずりも一緒に引き出されて寝台になるという構造だった。寝台幅は1000mmと寝台車としては広く、居住性は確保されていた。(©spaceaero2, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 もっとも、カートレインが特急ではなく急行として設定された理由は、少しでも料金を抑えようとしたこともあると思われますが、列車の運行速度や所要時間などの問題もあったといえるでしょう。運転される期間を設定した臨時列車だったため、定期列車の合間を縫うようにしたダイヤだった(列車番号は臨時列車を示す9000番台)こと、汐留を18時25分に発車し、終着の東小倉には翌日の10時15分に到着、所要時間は15時間50分もかかったことも理由の一つと考えられます。

 このようなダイヤでの運行でしたが、カートレインが登場したときは非常に人気のある列車だったと記録されています。この列車に乗るために、指定券を取るために発売日前日から徹夜で並んでいないと手に入れることが困難だったといわれてます。それだけ、自分の車を列車で運んで、旅先でも乗り慣れたマイカーで旅行をするというスタイルが、多くの人に受け入れられたといえます。そのため、カートレインは斜陽化していた国鉄の長距離夜行列車としては、久しぶりのヒットとなったといえます。

 これだけ人気のあったカートレインでしたが、その後は波乱に満ちた運命をたどることになりました。

 発駅となった汐留駅は、翌年の1986年に廃止となったため、発駅を恵比寿駅に移します。分割民営化直前の1987年3月になると、それまで途中での下車が認められていなかったのを、広島駅で一部の編成(自動車を積んだワキ10000形)を切り離すことで、ここでの下車ができるといった利便性を向上させました。

 翌1988年になると、カートレインを名乗る列車が増えたことで、元祖の東京―九州間の列車は、「カートレイン九州」に名を改めました。そして、それまでカートレインを利用する乗客を乗せてきた品川運転所配置の20系から、尾久客車区の14系に置き換えられました。これによって寝台料金は安くなり、わずかに定員が増えました。

 1990年には、発駅を恵比寿駅から浜松町駅に再度変更しました。これは、恵比寿駅にあった貨物側線を撤去することになったためと考えられますが、その他にも恵比寿駅から直接東海道本線に入線できないため、大崎駅から大崎支線に入り、旧蛇窪信号場から品鶴線を経由していたとも考えられます。このルートは横須賀線も運転されているので、恐らくは夕方のラッシュ時間帯の過密ダイヤの中を、機関車牽引の列車を走らせることに難があったと考えると、この変更も説明がつきます(明確な資料がないため、あくまでも筆者の想像の域を出ません)。

 

分割民営化直後に「あさかぜ52号」として運用に就いていた20系客車。見ての通り、最後尾に連結されていたカニ21形には、窓下と裾部に帯を巻いているが、登場時にはあったま幕板部の帯はない。すでに“第二線級”の扱いになった20系のなかでも、数少ない新会社へ継承された車両だった。その「あさかぜ」ですら、かつては4往復体制をとって盛況だったが、他のブルトレ同様に利用者の減少によって衰退は免れなかった。そして、分割民営化後は下関-博多間と本州三社と比べて運行距離が短く、運賃など距離に応じた分配金を受け取る制度のもとでは、JR九州はもっとも割を食う形になり、損の運行には消極的になっていき、1994年までに東京-博多間の1往復である「あさかぜ1・4号」が臨時列車に格下げとなり、事実上廃止になった。20系時代の栄華を極めた列車からは考えられない衰退ぶりだったといえる。(1987年月 浜松町-田町 筆者撮影)

 

 浜松町駅に発着になったカートレインは、その後は大きく変化することなく運転されました。

 しかしバブル崩壊による景気の悪化、そもそもワキ10000形に乗せることのできる自動車のサイズに制約が多く、当時製造されていた車のサイズが大型化していったことで、載せることができないものが増えたことにより、積むことのできない車が多くなってしまいました。

 

《次回へつづく》

 

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