旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

峠に挑んだ電機たち 第3章 今も残る補機運用 川の水を分かつ安芸国の隘路・瀬野八【4】

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《前回からのつづき》

 

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 EF56形もEF53形と同様に戦前製の旅客用省形電機で、主電動機をはじめとした主な機器類は同じでした。走行性能も同一で、もっとも大きな違いは暖房用の蒸気発生装置を搭載していたことです。

 EF53形と同様に、EF56形も歯車比の設定を変更し、1エンド側は走行中に連結器を解放できる解放用のシリンダーの設置、10000系高速貨車との連結を可能にするため、ブレーキ管と元空気だめ引き通し管を接続する空気管付密着自動連結器への交換、重連運用のための重連総括制御装置の追加といった改造を受けました。一方、EF56形には蒸気発生装置が搭載されていたので、改造のときにこれを撤去しました。

 外観は、種車となったEF56形のうち初期の車両が選ばれたため、EF53方とは異なり車体は丸みを帯びたものになっていることや、蒸気発生装置を配置したのが機器室の1エンド寄りであったため、集電装置は他の電機とは異なりやや中央に寄った位置に設置されていました。これは、EF59形への改造時には特に手をつけられていなかったため、種車の形態をそのまま引き継いだのでした。

 こうして、EF53方を種車とした19両と、EF56形を種車とした5両、合わせて24両のEF59形が瀬野区へ出揃い、山陽本線最大と言っても過言ではない難所の瀬野八を越える列車の後補機として活躍しました。

 瀬野八を越える列車は、原則として瀬野駅で後補機となるEF59がたを連結し、急峻な坂を登り終えた八本松駅で停車し、これを切り離していました。しかし、前にも触れたように寝台特急と特急貨物列車は瀬野駅と八本松駅は通過するダイヤ設定になっていたため、寝台特急は広島駅で、特急貨物列車は広島操車場でEF59形を最後尾に連結し、坂を登りきった八本松駅より広島方で走行中に連結器を解放して切り離していました。

 この中で、特に問題になったのは10000系高速貨車でした。

 最高運転速度100km/hで走行するため、電磁自動空気ブレーキを装備するとともに、台車は貨車用のものとしては異例のダイレクトマウント式空気ばね台車のTR203形を装着するなど特殊な仕様となりました。これらは常に圧縮空気を送り込む必要があるため、通常のブレーキ管だけでなく元空気だめ管も必要でした。しかし、空気管が2系統あるということは、連結開放時にその作業は2倍になり、駅や操車場の操車掛に大きな負担を強いることになります。

 そこで、連結器を通常の並形連結器ではなく、密着自動連結器を装備するとともに、これらの空気管接続部を連結器の周囲に配置して、連結とともに空気管も接続、開放時にはこれを切り離すといった、自動で接続と切り離しができる構造にしました。

 このように、10000系高速貨車は特殊な連結構造を持っていたため、EF59形もそれに対応する必要がありました。特に八本松駅の広島方で、EF59形は走行中に切り離すため、この装備を欠かすことができないため、1970年までに全車が追加装備の改造を受けました。このため、1エンド側の連結器周りは様々な機器を配置、非常に物々しい外観になったのでした。

 

1935年にEF53形として登場し、東海道本線の旅客列車、特急「つばめ」や「はと」などの先頭に立つなど華々しい活躍をしたものの、後継車が次々と登場する中で次第に二線級になっていってしまった。特に冬季には欠かすことのできな暖房用の蒸気を供給する蒸気発生装置をもたないことは、EF56形やEF57形に対して不利であり、暖房車の連結を必用とするといった煩雑さもあった。戦後、EF58形が増備されてくるとEF53形が活躍できる場面は少なくなり、主力機の座を追われると地方の電化区間や首都圏の小運転に使われる程度になっていった。高い性能をもち信頼性も厚かったことからお召し列車指定機でもあったが、次第に余剰化していってしまう。その折に、瀬野八用補機の改造種車になったことは、過去の栄光とはまったく違う地味な運用であったものの、長年にわたって築き上げてきた信頼性は申し分なく、山陽本線の隘路では非常に頼もしい存在であったといえる。1986年10月にすべての運用を退き、保存目的であったものの10号機がJR西日本に継承され、2006年に廃車・除籍されるまで70年以上の歴史に幕を下ろしたが、EF59形として活躍していた当時も含めて、戦前の省形旅客用電機の姿を伝える貴重な歴史の生き証人だったといえる。(EF59 1〔瀬〕 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)

 

 EF59形は瀬野八を越える列車にとって、とても頼れる存在でした。しかし、種車のEF53形は1932年から、EF56形は1932年から製造された戦前製の車両で、EF59形に改造された時点で古豪機であり、老朽化が進んでいました。特にEF56形は蒸気発生装置を搭載していたため車体の腐食も激しく、後をつく後継車の開発は喫緊の課題になっていました。

 1977年にクイル駆動方式を採用したEF60形の初期車を改造したEF61形200番台が登場すると、関係者も大いに期待を寄せたことでしょう。しかし、重連運用時に押し上げ力が大きすぎて非常ブレーキを使うと座屈する危険があることがわかり、期待の新鋭機であるEF61形200番台は単機運用に限定されてしまったため、EF59形の置き換えは遠のいてしまい、車齢が45年経った古豪機は今しばらく老体に鞭打ちながらの活躍を続けなけれbなりませんでした。

 とはいえ、一部の運用はEF61形200番台に引き継ぐことができたため、特に車体の腐食が激しかったEF56形を種車に改造された5両のうち、21号機を除いて1979年に廃車、改造から長くて10年、短いものではたったの7年でその役目を終えて姿を消していきました。また、EF53形を種車とした車両も一部は1979年までに廃車となり、瀬野八は古豪EF59形とEF61形200番台によって支えられることになります。

 

EF59形の最大の特徴は、戦前の省形旅客用電機が補機として地味でしかもパワーとトルクが必用な性能をもって運用に就いていたこと、それを実現するために2エンド側には自動解放を可能にした空気管付密着自連をはじめとした物々しい装備、そして1エンド側の車体前面に入れられた黄色と黒のゼブラ模様の警戒色だったといえる。このゼブラ模様の塗装がなければ、種車のEF53形と大きく変わらなかった1エンド側ではあるが、瀬野八越えをする列車たちにとっては、なくてはならない存在だったといえる。(EF59 1〔瀬〕 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)

 

 そして1982年になると、ようやく待ちに待った新鋭機が登場しました。EF60形後期型を種車に改造されたEF67形の登場によって、EF59形もいよいよ引退の日が近づきました。この間、ダイヤ改正の度に貨物列車も削減され、瀬野八の補機の出番も減っていきました。1984年のダイヤ改正では貨物輸送の大整理が行われ、車扱輸送は原則として廃止になり、運用数は大幅に減りました。そして、EF61形200番台とEF67形に後を託して、EF59形は保存を目的とした10号機と21号機を残して1985年までに全機が廃車となりました。

 この中で、もっとも古いのはEF53 2を改造したEF59 11で、車齢は53年にも達していた老兵でした。これだけ長い期間、過酷な運用に耐えることができたのは、もともと頑強な設計であったことや、国鉄の保守管理に携わる検修職員の努力の賜物だといえるでしょう。

 

EF53形として1935年登場してから既に90年が経ち、鉄道省が製作した省形電機の姿を今に伝える貴重な存在になったEF59形は、その1号機とEF53 2に復元された11号機が、今もなお群馬県碓氷峠鉄道文化むらで保存・展示されている。多くの僚機が廃車後に解体されて姿を消していった中で、この2両は「隘路を越える」という点で碓氷峠と共通するものがあり、EF63形などとともにその麓で静かに訪問者に語り継いでいる。省形電機がどのような構造であったかなど、同じく展示されているEF58形と比較しながら見ていくのも面白く、研究の格好の材料でもあるといえる。(EF59 1〔瀬〕 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)

 

 その一方で、1985年にEF59 11が廃車になった時点で、EF59形は形式消滅をしていませんでした。運用からは外されましたが、EF53 1を改造したEF59 10は、車籍を維持したまま1987年に国鉄分割民営化を迎え、JR西日本が継承して下関運転所に保存されました。しかし、残念なことにこの保存車は博物館などに収蔵されるといったことはなく、日の目を見ることもないまま2006年にようやく廃車の手続きがとられ、1932年に新製されてから74年目にして解体の運命をたどっていきました。そして、この時点で全車が除籍されたことで形式消滅したのでした。

 

《次回へつづく》

 

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