《前回からのつづき》
1986年になると、翌年に控えた国鉄の分割民営化を前に、横川機関区は横川運転区へと改組・改称されます。これは、機関区の名称は貨物会社が使うことになったためで、旅客会社は機関車配置の区所も運転区や運転所という名称にするためでした。しかし、1号機と14号機は分割民営化を目前に廃車となり、ここで長らく維持してきた23機体制が崩れることになります。これは、貨物列車の運用がなくなったことや、碓氷峠区間を通過する列車も減り、運用に余裕が出てきたことが理由として考えられるでしょう。廃車後、1号機は横川運転区でそのまま保管され、14号機は高崎機関区に移動して保管されることになりました。

EF63形は碓氷峠区間を通過する「すべての列車に連結」するという運用の性質上、電機でありながら客車・貨車以外に電車や気動車にも連結する特異なものだった。そのため、すべての動力方式に対応するため、一般の電機には見られなかった数々の装備をもっていた。軽井沢方の連結器は自動連結器と密着連結器の双方に対応できる、双頭連結器を備えていた。(EF63 10 碓氷峠鉄道文化むら 2017年7月8日 筆者撮影)

すべての動力方式に対応できるというのは、単に連結器の違いだけではない。ブレーキ方式(自動空気ブレーキや電磁直通ブレーキ)の配管や電気回路に至るまで、これに対応できなければならなかった。また、EF63形と連結される車両と電気回路を構成するにしても、回路上では同じであってもそれぞれを繋ぐためのジャンパ連結器は形式ごとに違っていたので、通過するすべての車両に合わせる必要があった。そのため、写真のように多くのジャンパ栓受けが備えられ、対応する形式ごとに色分けもされていた。このような装備をもったのはEF63形だけであった。(EF63 10 碓氷峠鉄道文化むら 2017年7月8日 筆者撮影)
1987年の分割民営化で、EF63形は車籍を維持した21両全機が、JR東日本に継承されました。国鉄時代に大量の機関車が在籍していましたが、機関車を主力とするJR貨物には、設立後の経営基盤などを考慮して、必要最小限とされる数で比較的経年の浅い車両が継承される一方、旅客会社は電車や気動車を主体とするため、寝台特急や夜行急行列車、工事臨時列車などを牽くために必要な数の機関車だけが継承された中で、EF63形は碓氷峠区間専用の特殊仕様機であることや、ここを通過するすべての列車に必要な補助機関車であったことから、1形式の電機としては異例の全機が旅客会社に継承されたのです。
しかし、EF63形は全機が継承されて現役で活躍できたとはいえ、その行く末はすでに決まっていました。1973年に決定した整備新幹線の一つとして、北陸新幹線の建設が計画されていて、高崎駅から軽井沢駅の間は途中駅となる部分の1kmは平坦にするほかは、30パーミル程度の勾配を登り降りするルートが決定され、1989年に着工し1998年までには開業することが決まっていたのでした。そのため、並行在来線となる信越本線のうち、軽井沢駅−篠ノ井駅間は第三セクターのしなの鉄道に移管し、急勾配を数多く擁する難所である碓氷峠区間の横川駅−軽井沢駅間は廃止となることが決まっていたからでした。
こうして、分割民営化後も国鉄時代と変わらず補機となるEF63形を必ず連結する運用を続け、近い将来は新幹線にその役割を譲って姿を消していく運命であること知りながらも、峠を超える列車のシェルパとして、その重要な役割を黙々と果たし続けたのでした。
1997年10月1日に北陸新幹線(開業当時は長野新幹線と呼称)高崎駅−長野駅間が開業すると、計画通りに信越本線軽井沢駅−篠ノ井駅間はしなの鉄道へ移管、横川駅−軽井沢駅間は廃止となり、1963年の粘着運転へ移行して以来、34年もの間を峠のシェルパとして走り続けたEF63形は、全機が用途を失ったのでした。

分割民営化後も、EF63形は国鉄時代と変わらず峠を越えるすべての列車に連結され、下り列車では最後尾から列車を力強く押し上げ、上り列車では速度を抑えるための強力なブレーキとしての役割を担い続けた。その一方で、北陸新幹線の建設も進められ、隘路を解消する方向へと時代は進んでいた。1999年の北陸新幹線長野開業により、信越本線の碓氷峠区間は100年以上に渡るその歴史に幕を下ろし、最急勾配の補機専用機として活躍を続けてきたEF63形も、その任を全うしていった。(©Shellparakeet, CC0, via Wikimedia Commons)
碓氷峠区間に特化した装備と性能であったため、他の用途へ転用することはほぼ不可能で、仮に改造などによって転用したとしても、その費用は莫大になり、費用対効果の観点から、最初から転用は考えていなかったでしょう。そもそも旅客会社において機関車自体が少数派であり、その用途も限られたため、そうした事自体考える余地はなかったと推測できます。
1997年の碓氷峠区間の廃止まで在籍したEF63形は21両でしたが、この年の9月30日をもって所属していた横川運転区も廃止になり、高崎運転所に転属しました。もっともこの転属はEF63形を転用するためのものではなく、廃車手続きが始まるまでの一時的な措置であったといえるでしょう。実際、転用の改造工事などはせずに、そのまま1998年に全機が廃車となり、形式消滅していきました。
この廃車までの間、唯一の例外が存在しました。
1997年10月18日に、大宮工場で開催される一般公開イベントで展示されることになった、高崎運転所所属のEF55形1号機とEF60形19号機を回送するために、EF63形19号機が先頭に立って牽引したのでした。これが唯一、EF63形が碓氷峠区間以外の本線で運用された実績となったと考えられます。もっとも、この19号機による回送列車の運転は深夜に行われました。これは、EF63形が極端に重い自重と軸重のため、他の形式のように高速で走行することが不可能なためだったといえます。深夜であれば、低速で走行しても他の列車の運行を支障することもないので、EF63形による本線の運行を可能にしたと考えられます。
1998年に廃車となり車籍を失ったEF63形ですが、その後多くが保存されました。
1号機と10号機、18号機は静態保存として、横川運転区跡地に開設された碓氷峠鉄道文化むらに保存され、1号機は登場時のぶどう色2号の塗装を身にまとっています。11・12・14・25の4両は、同所で動態保存されて2024年現在も、体験運転用として現役時代と変わらぬ整備を受けて、かつての碓氷峠区間の一部を走る姿を見ることができます。
この他にも、2号機は軽井沢駅構内で、22号機は個人所有となって静態保存されています。また、唯一、碓氷峠区間以外の本線を走行した19号機は、一時期長野総合車両センターに保管されたものの、展示などされることなく2019年に解体されてしまいました。また、廃車後に高崎機関区で保存された14号機*1も、展示などされることなく解体されてしまいました。
このように、多くの車両が保存されているのは、EF63形が難所である碓氷峠を越えるという困難な役割を担い続けた特殊性と、首都圏と北陸・上信越の間を往来する人々や物流を支え続けた功績を称えられたことの表れであるといえます。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
(次章は奥羽本線の隘路、板谷峠で活躍した電機たちです。)
【了】

特殊な装備をもったEF63形は、その用途を失った後は他には転用することも難しく、碓氷峠区間の廃止とともに全車が廃車となり、形式消滅していった。しかし、その特殊用途であったことから知る人も多く、そして首都圏と信州路を結んだ功績は大きかったこともあって、比較的多くの車両が保存された。1号機が横川運転所跡地に開設された碓氷峠鉄道文化むらに収蔵され、登場時のぶどう色2号に塗り替えられたのに対し、2号機は国鉄直流機色のまま軽井沢駅構内に保存された。どちらも1963年の製造であり、この記事を執筆している2025年で既に半世紀以上も経っているが、定期的な修繕を受けているため状態も良好だといえる。いずれも、隘路に挑み続けた歴史の生き証人である。(©LERK, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Cmmons)
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