旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

峠に挑んだ電機たち 第3章 今も残る補機運用 川の水を分かつ安芸国の隘路・瀬野八【1】

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第3章 山陽本線の隘路・瀬野八

 国鉄・JRの鉄道線、特に長距離大量輸送を担う幹線の多くは、古くからある街道に沿うようにつくられています。例えば、東京と神戸を結ぶ東海道本線は、日本橋から京都に至る東海道にほぼ沿うように建設されました。

 これらの街道には、「難所」と呼ばれる場所が多く存在しました。東海道であれば、小田原宿と三島宿の間には「天下の険」とも呼ばれた箱根山が立ちはだかっていました。非常に険しい山道であり、ここを歩いて越えるのは非常に困難でした。そのため、箱根山中には箱根宿が置かれ、旅人はここで休息を取ることもできました。

 こうした険しい山が立ちはだかる場所は多くあり、箱根であれば相模国伊豆国の境に位置することから「国境」とも呼ばれています。そして、この旧国の国境の多くは急峻な山や峠が立ちはだかり、人々の移動を厳しいものにしていました。

 日本に鉄道が開業すると、政府は東京から京都、大阪に至る鉄道の建設を進めました。新橋駅(旧汐留駅)と横浜駅(現在の桜木町駅)を開業させ、その後、西に向かって進んでいきました。しかし、小田原と三島の間に立ちはだかる箱根山を鉄道で越えることは不可能でした。あまりにも険しく、当時の技術力では線路の敷設はなんとかできても、列車が走ることはほぼ不可能だったのです。

 そのため、政府は国府津から箱根山の北麓を迂回するように線路をつくり、御殿場を経由して沼津まで行き、そこから再び東海道に沿うようにして西に向かって延伸させました。箱根山を直接越えることはせず、迂回する方法がとられましたが、それでも最大25パーミルの勾配があるため、列車の牽引定数は制限され、しかも補助機関車の連結を欠かすことができませんでした。

 こうした例は全国至る所に存在し、鉄道当局の悩みのタネだったといえます。それでも、政府は全国に鉄道網を広げるべく、立ちはだかる山峠をなるべく避けながら鉄道を建設していったのです。

 しかし、鉄道のルートを選定するうえで、避けて通れないところもありました。信越本線碓氷峠は、中山道沿いに建設されその急峻な坂道を避けることは叶いませんでした。そのため、レール間にラックを設置し、機関車にはこれに噛ませる歯車を設けて、粘着力に頼らない方法が採用され、なんとか東京と信越各地を結ぶことができました。また、奥羽本線板谷峠奥州街道に沿って建設されたために、日本では珍しい動輪軸5軸のE級蒸気を補機として運用することで、峠の登り降りを安全に走らせることができました。

 山陽本線の瀬野ー八本松間もまた、国鉄・JRの鉄道網では難所として多くの人が知るところでしょう。通称「瀬野八」と呼ばれるこの区間は、上り本線が22.6パーミルの急勾配が延々と10kmに渡って続くという、鉄道にとって非常に過酷な線形で、難所の一つとして数えられてきました。

 

山陽本線八本丸ー瀬野間の航空写真にそのルートを示した。左側が広島方で、安芸中野以西は平野部で市街地が広がるが、これ以東は狭隘な山間部を通っていることが分かる。対して八本松は盆地部にあるため平地ではあるものの、標高差は海抜255mに位置しているため、瀬野との間約10kmほどの短い距離で、上り列車は22.6パーミルの連続した勾配を駆け上がらなければならない。山陽本線の両側には山が取り囲むようにして聳え、その間を川沿いに縫うようにして鉄道が敷かれたため、勾配とカーブが連続するという線形になった。(©Goolgle Mapより出典)

 

 そもそも、このような険しい場所に鉄道を敷設したのには理由がありました。通常であれば、こうした勾配が厳しくなる場所を避けるか、あるいはトンネルを掘って勾配を緩和する方が合理的です。しかも、瀬野八がある場所よりももっと海側、広島駅から見て東側にある熊野町黒瀬町東広島市)を経由していく方が勾配を緩和できました。

 実際、山陽本線を建設した日本鉄道も、最初は瀬野八を通るルートを計画していました。これは、瀬野八越えのルートの方が路線延長を短くすることができ、その分だけ建設コストを抑えることが可能だったからです。

 しかし、建設コストがいくら安く抑えられても、瀬野八越えのルートには急勾配が連続することが問題になりました。これを考慮して熊野町を通るルートも検討したのでした。しかし、いくら私鉄である日本鉄道も、国の強い意向には逆らえませんでした。

 当時の我が国の鉄道は、軍需輸送に応えることも重要な役割として担っていました。第二次世界大戦が終わるまで、多くの国で鉄道は軍の重要な施設の一つとして考えられていました。特に有事になると、多くの人員や物資を輸送する必要が生じます。自動車やそれが走る道路が今日のように発達していなかった時代、陸上交通は鉄道の独壇場ともいえるものでした。そのため、軍部も鉄道の重要性は認識しており、国が敷設する鉄道はもちろん、国策により私鉄が敷設するものでも、国、特に軍部の意向に従う必要があったのです。

 日本鉄道としても、建設コストは安価に抑えられても、開業後に厳しい勾配が連続する瀬野八ルートでは、輸送効率も下がりコストが嵩むと考えたのでしょう。そこで、熊野町ルートを検討したのですが、日清戦争開戦直前という時代背景もあって、軍部はルートの変更を認めなかったのです。

 結局、旧街道である西国街道に沿う形で瀬野八ルートで建設されました。そして、開業後は山陽本線の列車運行の上ではもっとも厳しいところとなり、上り列車には補機を連結しなければ越えられない隘路となってしまったのでした。

 広島駅を出た上り列車は、府中大川を橋梁で渡ると南下し、海田市駅から瀬野川に沿って北上していきます。瀬野駅で補機となる機関車を連結すると、再び瀬野川に沿って北上していきますが、ここから西条駅に向かって急勾配が連続していくのです。瀬野川に沿って走り続けるため、曲線も厳しいものがあります。両側には中国山地の山々が迫り、谷間を縫うように線路が続いていきます。そして、西条盆地を囲む山を越えると勾配も終わり、八本松駅に到着します。旅客列車はここで補機を切り離していましたが、現在では補機を連結する旅客列車はありません。補機を連結した貨物列車は西条駅まで行き、ここで運転停車をして補機を切り離します。

 

瀬野八にも最強のパワーをもった蒸機 D52形が配置されて補機として使われていた。戦時設計で粗悪なつくりであったが故に、工作数の削減による強度不足や劣化の早さ、代用材を多用したことなどから、ボイラー爆発事故を起こすなど何かと不遇な扱われ方をされがちだったが、それでも状態のよい車両は設計通りのパワーを出すこともあった。戦後、これらは標準設計に改められたことで改善し、期待通りの性能を発揮することになる。しかし、瀬野八のような隘路での補機運用は出力を上げるために多くの燃料を消費し、そのために大量の煤煙を吐き出すことになり、特に乗務する機関士や機関助士を苦しめた。また、1962年に山陽本線の電化が広島まで進展してきたこともあり、暖房用の蒸気発生装置をもたない戦前の省形旅客用電機のEF53形を改造した瀬野八用補機専用機のEF59形が登場し、D52形はその役目を譲っていった。(©LERK, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 つまり、瀬野八は広島市内の平地から、中国産しに囲まれた西条盆地のある標高200mに向かって山登りをするようなものであり、この盆地を境に広島市側に注ぐ瀬野川と、呉市側に注ぐ黒瀬川の分水界、すなわち川の分かれ道となる場所であることからも、ここの地形が険しいことが想像できるでしょう。

 そして、蒸機時代は様々な形式の車両が補機として、ここを越える列車に連結され、D51形やD52形のような大型貨物用蒸機もその役割を担っていました。しかしながら、第二次世界大戦が終わると動力近代化計画による無煙化の推進や燃料コストの削減などによって幹線の電化が進められると、1962年に山陽本線が広島までの電化が完成したことで、補機も蒸機から電機への移り変わっていったのでした。

 

《次回へつづく》

 

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