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筆者がまだ小学生だった1970年代終わり頃、テレビの歌謡番組で歌手の石川さゆりさんが歌っていたある曲を聴いて、「北へ向かう鉄道とはどのようなものだろう」と子供心に考えたことがありました。そして、歌詞にもある「上野発の夜行列車」とは、その曲の物悲しげにも感じる曲調から、どんよりとしてとても寒く感じるのだろうと想像しました。
かの名曲「津軽海峡・冬景色」ですが、東京から北海道へ帰郷する人々の姿と心情を描いた歌だといえます。集団就職で北海道から東京へ出てきて働いたのだが、何かしらの事情で傷心の中を、故郷の北海道へと帰っていく女性の姿だと想像できます。
さて、この曲の歌詞にもあるように、かつて東京から北海道へ向かうためには、上野から特急や急行といった列車に乗って青森まで向かい、そこから青函連絡船に乗り継いで函館へとたどり着くと、さらに北海道内へと向かう列車に乗り継がなければなりませんでした。
青函連絡船は青森と函館を結ぶ鉄道連絡船で、その運航は国鉄が担っていました。船の所有が国鉄であれば、それを運航する船舶乗組員も国鉄職員という、今日では考えられない形態の航路でした。これを如実に表しているといえるのが、ここを管轄する地方機関の名称で、当時は「青函船舶鉄道管理局」という名称でした。その名の通り、青森と函館地域の鉄道を管理するだけでなく、青函航路とその船舶も管轄していることを表していました。
この青函連絡船は、本州の北端となる青森から北海道の南端となる函館の間を隔てる津軽海峡を船で結び、両岸の鉄道の延長線上として旅客や貨物を輸送していました。そのため、当時の青森駅と函館駅は、線路が連絡船の桟橋まで続いていて、ここの可動橋を経て直接車両を連絡船に載せていました。もっとも、洞爺丸事故までは客車も乗客が乗ったまま連絡船による車両航送をしていましたが、この事故を契機に貨車のみ限られ、乗客はホームからつながっている乗船口から船内に乗るようになっていました。
青函連絡船の運航ダイヤと、青森と函館の鉄道ダイヤは原則として連続して連絡できるように設定されていました。例えば、青森発下り1便の出発は0時35分(1975年のダイヤ)と深夜で、函館に到着するのは早朝の4時25分でした。この便に接続するのは青森に0時15分に到着する「はつかり4号」(1M)で、函館からは4時45分発の「おおぞら1号」(1D)となっていました。列車番号と便名も揃えられていて、特急券や乗船券を発券しやすくするとともに、運行に携わる職員にも分かりやすくなっていました。
こうしたダイヤ設定はすべての便で設定されていたことから、国鉄は青函間の連絡船による輸送は、鉄道と一体的になるようにしていたことがわかります。そのため、上野ー青森間の列車と、函館発着の道内各地を結ぶ列車は、東京ー北海道間の連絡輸送を担う重要な存在だったといえるのです。

青函トンネルが開通するまで、本州と北海道の間は国鉄が運航していた青函連絡船を利用するしかなく、青森ー函館間は61海里、約112.9kmの距離を4時間30分かけて渡らなければならなかった。本州ー北海道の連絡という国民の生活にとって重要な役割を担っていたため、連絡船と列車は必ず接続できるダイヤ設定としていた。上野から青森に到着したらそのまま連絡船に乗船、函館に到着して再び列車に乗車することを前提にしていた。そのため、国鉄時代の北海道内の優等列車は函館を起点に設定され、ここから道内各地へ向かうことになる。(©spaceaero2, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)
このような性格を与えられたため、北海道内の優等列車の多くは北海道庁が置かれた札幌ではなく、青函連絡船に乗り継ぎ駅となる函館を中心にしたダイヤが設定されていました。
例えば、2025年現在も運行されている特急「おおぞら」は、札幌ー釧路間を結ぶ特急列車です。キハ261系気動車が運用に充てられ、348.5kmの距離を4時間13分ほどで、北海道の中心である札幌と、道東の釧路を結ぶ都市間輸送の役割を担っています。
しかし、青函連絡船が運航されていた当時は函館発着の列車として設定されていました。前述の下り1便11便に接続する「おおぞら1号」は、函館を早朝の4時45分に発車し、札幌は経由地の一つに過ぎず到着は9時15分でした。そして、そこからさらに東に進んで釧路に到着するのは昼をとっくに過ぎた14時52分と、681.2kmという距離を10時間7分もかけて走っていたのでした。
もう一つ、特急「北海」は函館本線をひたすら走って、網走(※1)までを結んでいました。通称「山線」と呼ばれるニセコ・小樽経由の気動車特急は、函館ー札幌ー網走間を結ぶ長距離列車でした。
青函連絡船下り1便に接続していた「北海」は、「おおぞら1号」が函館を発車した5分後の4時50分に出発し、札幌には11時05分に到着していました。所要時間は6時間5分と現在の1.5倍近くかかっていました。札幌からさらに旭川へ、多客時にはさらに東に進んで東端ともいえる網走までを結んで到着は15時19分、660.8kmを10時間24分かけて走っていたのでした。
この2つの列車を見ても、現在とは運行形態も所要時間も大きく違っていたのです。
このような、走行距離とその時間だけ見ても過酷ともいえる運用に充てられたのが、キハ80系気動車だったのです。
※1 初稿では特急「北海」の終着を網走と記載しておりましたが、旭川ではというご指摘をいただきました。資料などをもう一度読み直してみたところ、所定では函館ー小樽ー札幌ー旭川を1Dとして運転、多客時には旭川から網走まで臨時列車8011Dとして運転されていました。そのため、長距離を走る運用もありキハ80系にとって過酷な運用であることから、本文中には網走まで運転と記載しました。加除訂正させていただきます。
《次回へつづく》
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