◆就職活動 ひょんなことから鉄道マンへ
県内の公立工業高校の電子科で主に通信系を学んだ私は、高校三年生の時には就職することを考えていた。もっとも、具体的にどこへ行きどんな仕事をしたいというものはあまりなく、ただなんとなく働きに出るんだな~という感覚だったのを今でも憶えている。
担任の先生からは、「渡邊、君はどこに就職するのか?」と聞かれても、「そうですね~」とのらりくらりとはぐらかしていた。強いていえば、学んだ通信の技術が使えて、さらに腕を磨ける仕事というのだけははっきりしていた。
ある日、なんとなく手にした本があった。それはアメリカ空軍を舞台にした長編大河小説で、なんと3冊構成だった。空軍に入って活躍する男たちの物語で、その中でも整備の仕事をする下士官の男の姿が、何ともいえぬほどの格好良さを感じた。
そうだ、航空関係に行こう。しかも学びながら給料をもらえる仕事だ!
勉強しながら給料をもらおうなんて、今考えると何とも浅はかでお恥ずかしい発想だと苦笑いしか出てこないが、その当時は誠に真剣だった。それに、私の家はとてもじゃないが裕福だとはいえず、中学卒業の時には既に大学進学を諦めていたので、高校を卒業したら必然的に働きに出て独り立ちをすると考えていたから、この発想になったのかもしれない。
ある日、もう夏に入った頃だったと思うが、私は担任の先生に電子科研究室(工業高校は様々な科があり、それぞれに教員が配置されているために必然的にその数は多くなるので、各科ごとに教員が仕事をする研究室があった)呼び出された。もちろん、進路指導の話だ。
「そろそろ進路を決めないとマズいぞ。どこへ行くか決めたのか?」
もうこの頃になると、ほとんどのクラスメイトは就職先なり進学先なりを絞り込み、早い者なら既に決まっていた。それに引き換え、私はといえばいまだ具体的な行き先を決めてなかったから、周りの友だちからは「ナベ(私のニックネーム)、そろそろマズいんじゃないか?」と心配する声も聞かれた。
さすがに、「いえ、まだです」などとは言えない状況だ。下手に言おうものなら、担任の先生に進路先を決められてしまうか、ともすると保護者の呼び出しになるかも知れない。
そこで私は、「航空自衛隊に行きます」と答えた。
さあこれで進路も決まった、担任の先生も納得して試験を受ける・・・はずが、そうは問屋が卸さなかった。
担任の先生は、さらに渋い顔になり腕組みをしてしまった。
「自衛隊かぁ。あまり勧められないな」
はいそうですか、それでは別のを探します。などと簡単に言えれば苦労はしない。それからというもの、私が選んだ進路のことについて、苦労は多いとか体力勝負だとか、まあいろいろと話をして私の考えを変えようとしてくれた。
そうはいっても、一度考えたことだから易々と引っ込める私ではない。
この日は、「とにかく、考え直すといいんだがね」と言われて、進路指導は終わった。
それから何日か経ったある土曜日、再び担任の先生に呼び出された。またも進路指導だ。私はまた同じ話を聞かされるのかと少々ウンザリしながらも、電子科研究室に出向いた。
「渡邊、考えは変わらないか?」
「はい、今のところは」
「そうか。今日は卒業生で、今は海上自衛隊にいる先輩が来ているぞ」
と、担任の先生の教え子である先輩を紹介された。
その先輩は屈託のない笑顔で、「たまたま遊びに来たんだよ」と言っていたが、いま思うとどうやら担任の先生から相談を受けて、私の航空自衛隊志願を諦めるように説得に来たようだった。
ともかく、その先輩からはいろいろと話を聞かされた。よい面、悪い面など。
先輩との話を終えると、再び担任の先生から「どうだ?」と聞かれた。さすがに実際にそこにいる人の体験談やら苦労話を聞くと、さすがに頑固にもなれず、「考え直します」と答えてしまった。
もう夏休みに入ってしまったので、ここからが大変だった。
1990年と言えばバブル経済絶頂期。求人は売り手市場とはいえ、他の生徒からすれば求職活動はかなり遅いスタートだ。休みではあったが、ほぼ毎日のように学校に行っては、求人票をペラペラとめくり就職先探しに明け暮れた。
何日かが経って、何冊目かの求人票の綴りをめくったとき、ある会社が目に入ってきた。
・東日本旅客鉄道株式会社 職種:鉄道係員
・東海旅客鉄道株式会社 職種:係員
・日本貨物鉄道株式会社 職種:機関士養成候補生
おや、この会社、どこかで聞いたことあるような。そう思って、会社要覧を見てみるとやはりそうだった。設立は1987年4月、国鉄の分割民営化で誕生したJRの新会社だった。
JRが高卒を採用するのか!
国鉄時代は莫大な赤字経営のために新規採用を抑制し、JR移行後も新卒採用をしてこなかったのが、ここに来て募集しているのだ。
そうなると、忘れていた私の幼き頃の夢が、再び頭をもたげてくる。
よし、これだ!
私は迷わずある一社に絞り込んだ。鉄道の町で育ち、いつも貨物列車を眺めてはいつかはその仕事をしたいと願っていた仕事。
私は進路指導の先生に、JR貨物を受けてみると伝えた。
こうして、私は鉄道マンへと進路を定めていった。