《前回からのつづき》
幡生操ー門司駅間を走る貨物列車は、EF81形が重連で牽いていました。これは、関門トンネルの勾配が20〜25パーミルと険しく、万一トンネル内で列車が停止したときに、1000トンから1200トンの列車を引き出すことが必要になるため、国鉄時代から重連での運用が決められていました。そのため、単機回送列車も最低で重連、ダイヤによっては列車をまとめるため四重連の単機回送列車も組まれていたのです。
筆者が添乗した列車は、EF81形重連の列車でした。そして、発車を待つ重連のEF81形のうち、1両は銀色に光るステンレス車体をもった銀釜だったので、それはもう興奮することこの上なかったのです。
銀釜とローピンの2両のEF81形は、発車時刻が来ると機関士のハンドル操作でブレーキを寛解、ついでマスコンのノッチをシリース1段に入れるとゆっくりと走り出します。そして、機関区の構内から門司駅場内へと入っていき、右手に門司駅の旅客ホームを見ながら東へと進んでいきます。そして、門司駅のホームを通過すると数百メートル進んだところで、関門トンネルの抗口がある線路へと移り、EF81形は勾配を降り始めるとすぐにトンネルの中へと入っていきました。
薄暗い前部標識灯に照らされた関門トンネルの中は、とにかく狭いという印象でした。関門トンネルは単線トンネルを上下それぞれ1本ずつつくった形なので、トンネル内を走行中は単線の大きさしかありませんでした。
そして何より驚かされたのは、水が漏出する量です。場所によっては滝のようにジャバジャバと落ちてくるところもあり、EF81形はその水を被ることもありました。そして、この水は関門海峡の海底から染み込み、トンネル内に漏れ出てきたものなので、当然、塩分を含んだ海水でした。
滝のように漏れ出てくる海水を、EF81形は車体に被りながら走っていくのです。
さすがにこれを見たときに、銀釜がステンレス鋼の車体をもっていたことに納得しました。普通鋼の車体だったら、相当の耐蝕処置を施さないとすぐに錆びついてしまい、老朽化を早めてしまうことは、まだ鉄道職員になりたてだった筆者にも容易に想像できました。
そのことを物語るかのように、実際に0番台を改造した400番台は、ただでさえ塗装が色褪せしやすいローピン(赤13号)なのが、全検や要検出場時のような艶や色味を失っている姿をよく見かけたものです。実際の記録写真もそうした姿が多く残され、塩害が鉄道車両に与える影響の大きさを感じざるを得ないものでした。
関門トンネルを走行しているときに、驚いたことがもう一つありました。すでにお話したように、トンネル内は大量の海水が漏れ出ていますが、それによって坑内の湿度が非常に高く、狭い運転室内は一気に蒸し暑くなることです。そして、その湿気はたちまち窓ガラスを曇らせて、前方の監視が容易ではなくなるのです。EF81形の前面窓は熱線入りガラスを装備していましたが、数分で通過することからあまり使われることはなく、筆者が添乗したときの機関士も、少々窓ガラスが曇ってもあまり意に介していないようでした。
このように、海水と塩害、そして多量の湿気という鉄道車両にとっても、そして高圧電流に対応した機器を満載した電気機関車にとっても過酷な環境であるといえます。そうした関門トンネルをもっぱら往復するという運用を担う銀釜ことEF81形300番台に、ステンレス鋼の車体を載せたことは必然であったといえます。
関門区間の継走の任をEH500形に譲った後、門司機関区のEF81形はED76形に代わって九州島内の貨物列車を牽く役割を担った。線路規格が低く軸重制限のあった九州南部への乗り入れも実現させ、最後は鹿児島本線を快走していた。そして、その終焉も刻々と近づいていき、304号機は一足先に廃車とされて姿を消していった。(出典:写真AC)
そんな、関門トンネルに特化した4両のEF81形300は、前述のように国鉄時代に離散したものの、分割民営化を前に再び門司区に集結、そのままJR貨物に継承されました。そして、2014年に303号機とともに未塗装でステンレス鋼の地色のままだった304号機が廃車となり、オリジナルのままである銀釜は303号機のみになりました。2015年になるとローピン塗装をされた301号機と302号機も廃車となり、2025年3月1日現在で、300番台は303号機が残るのみとなってしまいました。
最後に残った銀釜303号機は、そのまま2025年のダイヤ改正まで走り続けると考えられましたが、2024年秋にはトラックとの衝突事故を起こし、一時はそのまま運用を離脱して廃車の運命をたどるに危機に瀕しました。
しかし、銀釜に慣れ親しんできた沿線住民、特に子どもたちからの再起を望む声が、JR貨物の関係者を動かし、奇跡の復活を遂げました。通常、廃車が目前となった車両が不慮の事故によって大規模な修理をしなければならなくなった場合、そのまま廃車除籍されてしまいます。これは、多額の修理費用をかけても、運用できる期間が少ないため費用対効果の面でも好ましくないからです。また、303号機の場合、車体外板にステンレス鋼を使っていることがさらに不利に働きました。ステンレス鋼は折ったり曲げたりする加工が難しいため、破損したときの修理も普通鋼などに比べて難易度が高くなります。それだけ修繕にかかる費用は高くなるとともに、これをできる業者が限られてしまいます。
こうした303号機の復活には不利な条件が重なっていましたが、それでもJR貨物九州支社は多くの人に親しまれている銀釜を復活させようと奔走したようです。また、筆者の経験から、この修理にかかる費用の捻出も簡単ではなく、恐らくは本社に何度も掛け合ったことが想像できます。半年後に廃車になることが予定されていた車両に、高額な修理費用を出すことに本社はすぐに首を縦に振るはずもなく、私達の想像を超える苦労があったと考えるのが妥当だといえます。
そうした関係する多くの人の苦労と努力があったからこそ、303号機は奇跡的に復活を遂げ、再び九州の貨物列車を牽く姿を見せてくれたといえます。そして、沿線に住む人々にとっても、銀釜3030号機は身近な存在になっていたといえるのです。
こうして、奇跡の復活を果たした303号機は、1974年4月に新製されてから51年、九州・門司から離れることなく半世紀にわたる活躍をし、地球を78周するのと同じ距離を走り続け、本州と九州の間を行き交う人々や物流を支え続け、晩年は九州島内の物流を支え、この記事を初出した前々日に当たる2025年3月14日に運用を離れ、長い歴史に幕を下ろしました。
最後まで残った303号機は、多くの人から親しまれた存在だったといえるだろう。ステンレス鋼独特の銀色の輝き、1970年代に製造されたステンレス車に共通するコルゲート板、そして加工しにくい素材であることから普通鋼製のEF81形と比べ、僅かに角張った無骨なスタイルは、現代のステンレス車にはないものだった。(出典:写真AC)
鉄道職員として赴任した九州の地で、この銀釜に世話になったこともある経験から、筆者にとってはどこか親しみのあるカマでした。その銀釜もついに退く日を迎えたことは、筆者自身の齢を自覚させられるだけでなく、歴史のページがまた一つ書き終えたことを意味し、どこか寂しさを感じさせられます。同時に、鉄道車両としては類稀な50年以上の活躍に、心から労いたいと思うところです。
関門間の鉄道輸送の歴史を語り継ぐ存在として、初代のEF10形、二代目のEF30形がそれぞれ保存されています。三代目となるEF81形300番台もまた、その中に加わることで、後世に鉄道輸送の歴史を語り継ぐ存在になってくれればと願うばかりです。
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