《前回からのつづき》
長らく中央本線は塩尻峠を避けて南に遠回りするルートを走ってきましたが、辰野回りのルートは川沿いを走るためカーブも多く、列車は速度の制限を受けながら走らざるを得ませんでした。
しかし、線形が悪く速度制限が多くあるということは表定速度を下げてしまう、すなわち高速で運転することができないため、所要時間を長くしてしまいます。こうしたことから、列車の速度を上げて所要時間を短縮させることは、長年の課題にもなっていたといえます。
1970年代に入り、国鉄はこのいわゆる「大八廻り」と呼ばれる辰野経由から、塩尻峠を直接越えることによって到達時間を短くできないかと検討がされました。1970年代に入り、土木技術は飛躍的に向上していたことから、かつて検討の俎上に乗せられたものの、技術的な未熟さから断念された塩尻峠の下にトンネルを建設することを決定します。
1974年から建設が始められた塩尻峠の下を通るトンネルは、当時の技術の推移を集めて工事が進められました。それでも、工事途中で異常湧水が起こるなど困難に見舞われましたが、1982年にトンネルは全面貫通し、翌1983年に塩嶺トンネル(正式には塩嶺隧道)が本線格として開通、岡谷駅ー塩尻駅間は途中のみどり湖駅を経由し、ほぼ直線で結ばれたのでした。
塩嶺トンネルの開通によって、それまで本線格だった辰野駅を回るルートは支線に格下げになります。多くの優等列車は塩嶺トンネルを通過するようになり、遺された辰野廻りルートは普通列車のみが走ることになったのです。そして、その普通列車も多くは塩嶺トンネルを通過するため、中央本線を名乗りながらも一気にローカル線色が色濃くなり、東京や松本方面から直通する列車も削減され、岡谷駅ー辰野駅ー塩尻駅の区間便が多くなりました。
こうしたことで、辰野支線の輸送量は極端に少なくなり、115系3両編成では輸送力が過剰になったため、新たな少量輸送に適した車両を充てることにしたのでした。
このような背景の下で、クモハ123-1がつくられたのです。
クモハ123-1の車体は、できる限り種車のものを活用する方針になりました。両端の運転台や前面部分は、高運転台の3連窓非貫通の構造のままで、特に変化はありませんでした。側面は、もともとが荷物車だったため扉の位置が中央寄にあったため、これを乗務員室のすぐ後ろに、幅1000mmの片開きドアをそれぞれ2か所設けました。そして、客室の窓は種車のクモニ143形のものを活用し、これを扉間に9か所取り付けました。戸袋窓を入れると側窓は11個もあるなど、その外観は急行形電車にも似ているものでした。

中央本線には勾配線区に対応した115系が配置されていた。それ以前は70系や72系といった旧形国電が主体だったが、115系の投入によって新性能化を達成している。しかし、115系が最も短い編成を組むことができるのは、写真のような2M1Tの3両編成であり、これ以上短くすることは不可能だった。これは、115系も国鉄新性能電車の宿命ともいえる電動車を2両1組とするMM'ユニットによるものだった。髙尾以西ではこの数で適していても、輸送量が極端に低い辰野支線ではこれよりも短い編成を組む車両の登場が待たれたといえる。スカ色に塗られた115系も既に過去のもの、新長野色を身に纏った115系も既になく、現在は新長野色の帯を巻いた211系が中央東線の主役だが、それも新型への交代は時間の問題だろうか。(クモハ115-310〔八トタ〕他3連 大月駅 2004年8月20日 筆者撮影)
こうした外観のため、車内は乗降用扉部分にデッキがあり、客室はクロスシートが並んでいるかとさえ考えてしまいますが、実際にはそうした構造ではありません。ラッシュ時にはできるだけ多くの人を載せることができるように、扉部分にデッキはなく、客室内の座席はロングシートが設置されていました。扉の間隔が長いため、文字通り「ロング」なシートを備えることで、着席定員は減るものの収容力は確保することで、1両編成での運用でもラッシュ時の輸送に対応できるようにされたのでした。
《次回へつづく》
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