旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

国鉄の置き土産~新会社に遺していった最後の国鉄形~ 「魔改造?」出自が変わり種で国鉄最初で最後の1M方式旅客電車・123系【6】

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《前回からのつづき》

 

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 長らく続けられてきた、鉄道による郵便・荷物輸送は、1980年代に入ると合理化の対象になっていきました。手小荷物輸送は、1970年代終わり頃に始まった宅配便に押されてしまい、輸送量は減少の一途を辿っていました。郵便輸送も、鉄道からトラック、航空機などにシフトが続けられていたので、こちらも減少していきました。

 こうしたこともあって、手小荷物輸送は縮小されていき、荷物車や郵便・荷物車は余剰化していきました。郵便車もまた同じように、輸送そのものが他の方法へシフトされ続けたことで減少を続け、1984年までに鉄道郵便局員が乗務して車内で区分作業を行う取扱便が、1986年までに最後まで残った護送便と締切便が休止となり、鉄道郵便輸送は全廃、クモユ141形をはじめとした新性能1M方式電車の中にも余剰車が出てきてしまったのです。

 この余剰車となった中で、クモユ141形とクモユ143形は郵政省所有の私有車だったため、活用されることなくそのまま廃車になってしまいます。クモユ143形は新製から4年程度でその運命を絶たれ、一度も全般検査を受けることなく解体されてしまいましたが、国鉄保有していたクモニ143形やクモユニ143形などは、車齢が浅かったこともあって解体処分をするのではなく、旅客車に改造して活用することになりました。

 こうした設計思想の下でつくられたのが、クモハ123形だったのです。

 

満を持して登場した123系電車は、地方ローカル線を抱えていた鉄道管理局や運転区所が待ち望んでいたものだった。とはいえ、当時の国鉄に新型車両を新製するような資力は既になく、特に収益性の乏しいこれらの線区への多額の投資は消極的にならざるを得なかった。一方で、多くの郵便荷物車や荷物車は郵便輸送の休止や荷物輸送の縮小、そして原則廃止になっていく中で余剰車と化し、車齢も浅かったことからこれらの処遇も課題だった。そこで、余剰車となった新性能郵便荷物車や荷物車を旅客車化改造によって転用することで、地方ローカル線の新性能化と輸送効率の向上を図るべく登場したのが123系電車だった。種車が特殊な構造をもつものばかりである中、中央本線辰野支線に配置されたクモハ123-1は、出自が荷物車とは思えないほどの改造が施され、側面には小ぶりのユニットサッシが並んでいる。登場時は非冷房で、民営化後に簡易な改造で済むAU721形集約分散式冷房装置を搭載し、接客サービスの改善を図った。(出典:写真AC)

 

 輸送量が少なく、1両編成でも十分な輸送力を確保できる線区に向けたクモハ123形は、種車の機器を最大限活用することにしました。そのため、新性能1M方式電車としては初の旅客用電車ですが、種車の形式によって車体を新たに載せ替えるか、大規模な改造をするのか、それとも小規模で済ませるのかによって、その形態はもちろんのこと、装備している機器類も変化に富んでいました。

 まず最初につくられたのは、クモハ123形のトップナンバーでもあるクモハ123-1でした。1986年にクモニ143-1を種車として長野工場(現在の長野総合車両センター)で改造されたこの車両は、中央本線の辰野支線で運用することを前提としていました。

 この辰野支線は、かつては中央本線の本線部分を構成していましたが、岡谷駅を南下して辰野駅を経由し、再び北上して塩尻駅に向かう遠回りとも言えるルートでした。岡谷駅辰野駅を直線で通る方が距離も短く所要時間も短縮できますが、この間には塩尻峠が立ちはだかるため、長大なトンネルを通すほかに手はありませんでした。

 しかしながら、建設当時の技術では、ここに長大なトンネルを建設することは非常に難しかったのです。塩尻峠には糸魚川静岡構造線と呼ばれる大断層が存在し、ここにトンネルを建設するためには高度な技術が必要です。建設中に想定外の湧水が出てきてしまったり、掘削困難な岩盤地層があったと思ったら、予期せぬ軟弱な地層にあたったりするなど、とても難しいとされています。

 

中央本線の前に立ちはだかった塩尻峠は、中央構造線と呼ばれる大きな断層が走っていた。このことにより、長大なトンネル工を掘削するのは開通当時の技術力ではほとんど不可能とされた。後に断層帯を貫くように掘削された東海道本線丹那トンネルは、異常出水に悩まされて工事は難航、さらに掘削している断層帯震源とする北伊豆地震も発生したことで、全体として非常に難しい工事となった。そうしたことから、塩尻峠のトンネル掘削を断念したのは、当時としては正解だったといえる。結果として諏訪から天竜川に沿って一度南下し、辰野を経て塩尻に北上する迂回ルートとなった。線形も曲線が多くあるなど厳しく、列車の速達性を損なっていた。写真の中央部は伊那谷で、右側に見える山に囲まれた縦に走る谷は、中央構造線に由来する谷部。(©Sonata, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 実際に、東海道本線熱海駅函南駅間の丹那トンネルは、異常出水や火山帯であるため坑内は高温になるなど、その作業環境は困難を極めます。軟弱な地層もあり、崩落事故が起きて犠牲者が出たり、建設工事の計画線内には丹那断層もあり、ここを震源とする北伊豆地震も起きたりして、予定線がずれてしまうといったことも起きました。昭和の初期の技術でも困難を極めたのですから、明治の時代にここにトンネルを建設するのは、技術的にも無理なことだったのです。

 そして、無理をしてでもここにトンネルを建設した場合、長大なトンネルに加えて勾配も連続するので、蒸気機関車から吐き出される煤煙も問題になったことでしょう。煤煙が列車にまとわりついてしまい、乗務する機関士たちが窒息する危険もありました。

 そのため、塩尻峠を避けて諏訪湖から流れる天竜川に沿って南下し、辰野を経由したあとは横川川沿いに北上するルートが選ばれたのです。

 

《次回へつづく》

 

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