旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

国鉄の置き土産~新会社に遺していった最後の国鉄形~ 「魔改造?」出自が変わり種で国鉄最初で最後の1M方式旅客電車・123系【9】

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《前回からのつづき》

 

 クモハ123-1が長野工場で落成した同じ頃、広島工場(後のJR貨物広島車両所)では同じくクモニ143形を旅客車へ改造する工事が進められていました。クモニ143形の2~4号車の3両が、長野工場で進められたクモハ123形への改造を受けていたのでした。

 車体は1号車と同じく、可能な限り種車のものを活用しました。前面は非貫通構造で窓は上武に後退角がついた3連で、前部標識灯と後部標識灯は腰部に左右1個ずつと、クモニ143形時代のままでした。

 乗降用扉も車端部に寄せた幅1000mmの片開き引き戸を2か所設置し、輸送量の宿儺ローカル線向けの構造でした。1号車は種車の窓を活用しましたが、2~4号車はこれとは違うものにしました。

 側窓は幅1670mmと国鉄の車両としては異色の幅広のものを5個配置し、窓ガラスは熱線吸収ガラスを採用、従来の車両にあったカーテンを省略した意欲的なものとしました。換気のために窓の上部は内側に開く構造になり、今日のJRで運用されている多くの車両に使われている窓の構造に通じる意欲的なものを採用しました。

 そして、何よりも2~4号車は改造時にAU75形集中冷房装置を設置していたのです。ローカル線で運用することが前提の車両に、改造とはいえコストと作業工数、そして時間もかかる冷房化を実施したのは、これを充てる計画だった可部線の実態がありました。

 可部線山陽本線横川駅から可部駅を経て三段峡駅へ至る内陸の路線ですが、このうち横川駅ー可部駅間が電化されていました。クモハ123形はこの区間に充てる計画でしたが、並行して走る路線バスと競合することから、これに対抗するため当初から冷房化がなされたのでした。

 

広島近郊にある可部線は、もともとが私鉄として敷設・開業した路線であり、後に国有化された経緯のためか、運用する電車の新性能化は非常に遅かった。加えて輸送量が小さいことから、ここで運用するに適した車両がなかったことも、後年まで旧形国電が使われた要因だったといえる。既に大都市圏では101系や103系、中距離路線は113系などが多数投入されていたにもかかわらず、72系の活躍が続いた。もっとも、標準色ともいえるぶどう色2号ではなく、黄緑1号に前面は警戒色の塗装となり、側窓が3段窓でなければそれなりに垢抜けたスタイルだったといえる。ここもまた、2両編成や1両編成を組むことができる新性能電車の登場が待たれていた。(©spaceaero2, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 客室内には1号車と同じく扉間にロングシートを配置し、ラッシュ時の収容力を確保しています。しかし、1号車は客室内の壁は化粧メラミン板が使われていたのに対し、2~4号車では成形FRP板を使いました。これもまた、現代の車両に通じる素材と構造でした。

 そもそも化粧メラミン板を使えば、その色などにもよりますが内装はより高級感をもたせることもできるでしょう。しかし、化粧メラミン板を取り付けるためには金属枠やビス留めなど手間がかかり、検査や修繕時にはそれなりの工数と時間がかかります。

 しかし、成形FRP板であれば、素材そのものを軽量にすることができるとともに、大規模検査などで張り替える必要性も減らすことができ、何より日常の整備も楽になると考えられます。万一交換が生じても、交換用の部品も安価なので保守にかかる手間とコストを削減できるのです。そして、FRPは軽い素材なので、車両自体の軽量化に寄与できるのです。

 座席はロングシートでしたが、1号車とは異なりバケットタイプにすることで、着席定員を明確にしました。この座席はキハ38形にも採用されたもので、共通のものが使われたと考えられます。

 外装もまた、国鉄形車両らしからぬものになりました。ホワイト地に裾部にブルーの帯を2本、太いものと細いものを巻いた出で立ちになりました。

 このように、1号車と比べて国鉄の車両としては斬新ともいえる出で立ちの2~4号車でしたが、その経歴もまためまぐるしいものがあったといえます。

 改造当初は計画通りに可部線で運用するため、広島運転所に配置されました。可部線には、同じく余剰となった103系を1M方式電車に改造し、ローカル線での運用に輸送力を適正化した105系とともに、広島都市圏での輸送に携わりました。広島市の近郊にありながらも、可部線は輸送量が小さかったため、1両編成で運用することが前提だった123系も配置されたといえます。

 また国鉄時代、可部線は一部の列車が線内での運行があったことも、このような1両単位での輸送力で十分賄えたということも考えられるでしょう。しかし、分割民営化直後こそ国鉄時代の運用を踏襲していましたが、沿線の宅地開発が進むにつれて広島都市圏のベッドタウンともいえる性格を帯びてきたことから、横川駅止まりではなく、広島駅への乗り入れを要望する声も出てきたといえます。

 そうしたことが背景となり、1991年になると可部線の列車はすべて広島駅に乗り入れるようになり、線内のみを走る列車がなくなっていきました。その結果、123系のみで運行する列車はなくなり、朝夕のラッシュ時における増結用などの運用に充てられました。

 しかし、これも長く続くことはなく、1993年になると宇部電車区へと配置転換となり、宇部線小野田線用に転用されることになります。宇部線小野田線可部線よりも輸送量が小さいため、1両編成で運用ができる123系は最適だったのです。

 

可部線の新性能化は、新たに開発された105系の他に、1両編成を組むことができる123系によって行われた。中央本線辰野支線用に製作されたクモハ123-1の続番としてクモハ123-2~4が広島工場(現在のJR貨物広島車両所)で改造によって製作されたが、その姿はまったく異なるものだった。側窓は広く撮られた大型窓としたことで、車内への採光はよく、明るい印象をもつことができたといえる。その一方で、車内の壁面はFRP整形板を使うなど、新たな技術を導入している。これは、クモハ123-1が長野工場で作られたが、比較的保守的な考えを持った同所に対して、広島工場は新機軸に挑戦する気質があったためだと考えられる。実際、民営化後の広島車両所は、同じEF65形の更新工事でも大宮所施工車に対して、広島所施工車はオリジナルの塗装を施すなど、そのチャレンジ精神の枚挙にいとまがない。(出典:写真AC)

 

 そして、後に転属してきた5・6号車とともに、宇部線小野田線での運用に就くことになりますが、この時に種車であるクモニ143形の面影をもっとも強く残していた前面には貫通扉を設置する改造が施され、その顔の印象を大きく変えてしまいました。宇部線小野田線では1両編成だけではなく、増結用として105系と併結運転をすることが前提であったため、貫通扉を設置することで乗客の往来を可能にする必要があったためだと考えられます。

 2010年になると、JR西日本は鋼製車両の塗装を簡略化し、塗装工程の一部を削減して合理化を進めることで、保守コストの軽減をねらって「地域統一色」を導入しました。宇部線小野田線で走り続けていた2~4号車もその塗装変更の対象になったため、「瀬戸内統一色」と名付けられた農黄色1色、一部で「末期色」とも揶揄される塗装に改められてしまい、国鉄時代から保ち続けてきた独特の塗装から変わってしまったのでした。

 

《次回へつづく》

 

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