2.青函連絡船とは何だったのか|本州と北海道を結んだ鉄道連絡船の役割
この記事では、急行「はまなす」の前史として、本州と北海道の連絡輸送を担った青函連絡船の歴史と役割を紹介します。青森駅と函館駅を結んだ鉄道連絡船の特殊な構造、車両渡船としての機能、戦時中の重要性と戦後の輸送回復までを振り返ります。
〈この記事、前回は〉
急行「はまなす」は、青函トンネルの開通にともなう津軽海峡線が開業した1988年から運転が始められた、夜行急行列車であることは多くの人がご存知のことでしょう。
そもそも青函トンネルが建設されることになったのは、このブログでも既にお話ししてきたように、本州と北海道の連絡輸送を担うために国鉄が運航していた青函連絡船で起きた最悪の海難事故が契機でした。
青函連絡船は鉄道連絡船として、戦前から鉄道省、運輸逓信省、運輸省鉄道総局が直営する航路で、1908年に開業しました。青森駅と函館駅の間、113.0kmという長い航路を3時間30分から4時間程度の時間をかけて運航していました。

真冬に津軽海峡に向けて出航する青函連絡船。背景の山に降り積もった雪が、冬の寒さを想起させる。本州と北海道を隔てる津軽海峡は、鉄道輸送にとっても越えることが難しい壁であった。そのため、この間の連絡輸送は船舶によって行われ、鉄道省がその役割を担ったことから鉄道連絡船として運航され、列車と連絡線は必ず接続するダヤが組まれていた。しかし、気象条件に左右されやすく、荒天時は運航を見合わせるなど安定性の面で課題があった。また、所要時間は3〜4時間かかるため、速達性の面でもボトルネックであった。(出典:写真AC)
ここで使われていた船舶は、当初は貨客船として、後に車両そのものを積載できる車両渡船が使われていました。鉄道連絡船であるため、国鉄の乗客を直接船に乗ることができるように、青森駅と函館駅はホームから直接桟橋に向かうことができる構造になっており、船舶が着岸する岸壁も駅構内に設置されるという特異な構造をしていました。また、車両渡船に車両を乗せるため、レールも岸壁に延びており、ここに船が波によって動揺しても安全に積み下ろしができる可動橋も備え、入換用ディーゼル機と控車によって行われていたのです。
第二次世界大戦中は貨物輸送の最も重要な施設と位置づけられ、北海道で産出された石炭や軍需物資などを積んだ貨車が車両渡船に載せられるとともに、本州と北海道を往来する人々も乗せていました。
ところが、終戦間近の1945年7月14日に、米海軍の空母艦載機が襲来、青函連絡船を目標とした空爆が行われ、当時配船されていた車両渡船12隻中11隻が攻撃を受け、8隻が沈没、3隻が炎上または航行不能に陥るとともに、325名の人が死亡する被害を出しました。加えて8月に入っても1隻が攻撃を受けて沈没する被害を被り、もはや鉄道連絡船としての機能が果たせない状態になりました。
その後、新造船の配船や進駐してきた米軍による揚陸艦の貸与による支援を受けて、徐々に輸送力を回復していきますが、1951年には朝鮮戦争によって敷設された機雷が津軽海峡に漂流してきたため、夜間の運航を中止するなど安定的な輸送を実現することを困難にしていました。
そうした最中、1954年9月26日に日本列島に接近してきた台風15号が九州に上陸、中国地方を通過して日本海上に出た後、速度を増して110km/hという台風としては異常な速さまで加速しながら北東方向に進み、この日の夕方には北海道西側付近にまで達したのでした。
《次回へつづく》
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