《前回のつづきから》
ED74は1962年に製造されました。それまでの交流機は主整流器に水銀整流器を使用していましたが、位相制御ができる利点がある反面、真空容器の中に水銀を封入し、それを電極に噴霧した際に起きるアークを利用して交流を直流に変換していましたが、常に振動が起きる鉄道車両には不向きで、それによって水銀の噴霧が不安定になって整流効果も不安定になったり、整流器自体が破損したりするなど不具合を頻発させました。そのため、黎明期の交流機は信頼性に乏しく、かつ整備にも手間がかかるなど運用・検修どちらも悩ましいものだったので、早期に改善が求められていたのです。
ED74は主整流器を水銀整流器からシリコン整流器に変えた初めての交流機でした。
半導体技術の急速な進歩によって、高圧大電流に対応できるダイオードが開発されたことによって実現でき、振動による不安定な動作や破損の心配もなく、保守も簡便になるなど利点が大きいものでした。しかし一方では、水銀整流器では可能だった位相制御がなくなり、電圧を連続的に可変制御ができなくなったことで、粘着性能は低下し電圧切替時には衝動が発生するなどの欠点を抱えていたのです。
特に動輪軸の粘着性能低下は重量のある貨物列車牽引時には問題となり、空転が発生しやすくなるといった問題を抱えたのです。また、加速時に起こる軸重の変移もF級機であればそのパワーに頼って問題視されることはありませんでしたが、出力の小さいD級機ではそれ自体が問題になりました。特に心皿方式の台車を装着した場合、出力に余裕のあるF級機であれば動力の伝達損失もさほど問題にはなりませんが、D級機で心皿方式の台車を装着すると、伝達損失によって粘着性能がさらに低下したのです。
その問題を解決するために、ED74では台車から延びた引張棒を車体に接続させて動力を伝達する引張棒「ジャックマン装置」を採用したDT129を装着しました。この引張棒はレール面に対して逆「ハ」の字になるように装着されているので、車体を引っ張る作用を起こす場合(具体的には進行方向に対して後尾側の台車)は、その角度から力の作用は台車の下側、すなわちレール面に対して働くようになります。このことで、軸重の変移によって低下した粘着性能を補うとともに、F級機では可能だった心皿方式から、仮想心皿方式の台車を装着ができるようになったのです。
この仮想心皿方式とジャックマン装置を組み合わせたDT129は、その後の交流D級機の標準台車となり、後に登場するED75やED76などはもちろんのこと、F級機となったEF71にも採用され続けることになりました。
ED74で採用されたシリコン整流器や「ジャックマン装置」を備えたDT129台車は、その後の交流電機にも採用されるなど大きな影響を与えた。特にED75はED74で洗い出された課題を改善し、東北地方を中心に多数が活躍した。(ED75 1037 ©ja:User:永尾信幸, CC BY-SA 3.0, 出典:Wikimedia Commons)
車体はEF70を短くした意匠となり、全面は非貫通形態で前部標識灯は全面上部に左右に振り分けられたシールドビーム灯を2個、埋込式で装着されました。従来の交流機はそのデザインはバラエティーに富んでおり、ED70やED71は貫通扉付きの前面と、当時量産されていたDF50に類似したものでした。九州用のED72とED73はこれらとは全く異なり、前面は「鳩胸」と通称される「く」の字型に折り曲げるヨーロッパの機関車を意識した独特のデザインになり、画一化された直流機にはない魅力の一つだったといえました。しかし、国鉄は製造と運用にかかるコストの観点から、こうした独特のデザインを早くもなくし、直流機と共通のデザインをED74に採用したのでした。
1962年に製造されたED74は、全部で6両が製造されたところで終了になってしまいました。量産された交流機の中では最も少ない数で終わる「少数機」となってしまったのです。
この理由には、北陸トンネル開通当初は平坦区間をED74、北陸トンネルを含む勾配区間をEF70を充てるという方針でしたが、旺盛な輸送量を捌くためには列車単位の増強が必要でした。ED74は平坦区間において客車列車を牽く分にははさほど問題にはなりませんでしたが、問題は貨物列車でした。
増加する輸送量に対応するために列車単位を増加させると、単機での牽引は難しくなり重連でなければ対応できなくなることが予想されました。一方で出力に余裕のあるEF70であれば、列車単位を引き上げても単機で牽くことが可能であることや、共通運用を組むことが可能になり、加えて機関車付け替えを省略できることによる運転時間の短縮や、形式を1つに絞ることで運用コストが軽減できるなどのメリットが多くあるということで、ED74とEF70の2形式体制から、EF70のみ1形式での運用にするという決定がされたことで、6両という非常に少ない数で製造を終えてしまったのでした。
こうして、ED74は当初の計画どおりとはならず、少数形式という常態に追いやられた形になってしまったのです。
《次回へつづく》
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