旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

九州を走った北陸育ちのF級交流電機 EF70形【2】

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《前回からのつづき》

 

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 EF70形は交流電化が進む北陸本線の主力機として、1961年から製造されました。

 新製が始められた当初のEF70形は、それまでの交流電機が搭載していた主整流器が水銀整流器であったのに対し、シリコン整流器を搭載しました。水銀整流器は巨大な真空管の中に水銀を電極に噴霧することで生じるアークを利用して交流を直流に整流する機器ですが、整流器自体が大型になることや、真空管であるために振動に弱いこと、さらに水銀を噴霧させるため車両の揺れによってそれ自体が不安定になることなど、鉄道車両に載せるには不向きな機器でした。

 そのため、運転取扱だけでなく、保守にも困難をもたらしたため、たびたび不調に見舞われるなど安定した運用が難しいものとなってしまいました。しかし、水銀整流器の大きな特徴として、電圧の連続制御が可能になる格子位相制御が可能なことで、変圧器のタップ切換で生じる電圧差を吸収し、滑らかな電圧制御ができたことから、同じ主電動機出力でも、電圧差が生じる直流機の抵抗制御に比べて、交流機では起動時の粘着力が強く空転を起こしにくい特性があったため、交流D級機でも直流F級機並の性能が確保できるといわれました。

 しかし、水銀整流器の取り扱いと保守の難しさから、早期に取り扱いが容易な整流器が望まれていたことや、この頃には半導体技術が急速に進歩したことで、シリコン整流器が実用化したことから、EF70形の主整流器はシリコン整流器が搭載されました。

 このことにより、水銀整流器で可能だった格子位相制御による連続電圧制御がなくなり、電圧制御はタップ切換にのみに依存せざるを得なくなり、電圧変動時に生じる衝撃や起動時の粘着性能の低下を招くことになりました。

 このように、EF70形はシリコン整流器を搭載した交流電機としてはまだ黎明期のものであり、これら克服しなければならない課題はあったものの、シリコン整流器の安定した動作は機関車自体の故障を大きく減らすことにつながりました。

 EF70形に搭載された主電動機は、国鉄電機の汎用的なMT52でした。MT52は出力425kW、最大でも475kW(端子電圧900V印加時)の直流直巻整流子電動機で、これを6基装備して1次形では機関車出力2,250kW、2次形では2,300kWを確保しました。

 

北陸トンネル開通に備えて開発されたEF70形は、国鉄初の交流F級機でもあった。初期に製造された車両は前部標識灯を幕板中央部に白熱灯を1個設置した、EF60形など初期の国鉄電機と同じ意匠だった。後に増備された後期型は、幕板部にシールドビーム灯1個を左右1個ずつ設置したデザインで、どちらも国鉄電機共通のものだったといえる。EF70形はその性能を活かして、寝台特急日本海」や「つるぎ」の先頭にも立っていた。(©Spaceaero2, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 同じMT52を搭載したEF65形では、機関車出力2,550kWに対してEF70形が低いのは、交流電機では電圧制御を主変圧器によっておこなわれることと、主整流器で交流を直流に変換し、さらに変換された直流電流には波があり(これを脈流という)、このまま主電動機に流すと正常な動作が得られないため、平らな波形である本来の直流にするためリアクトル回路を通す必要があります。こうした様々な機器を通すために電流に損失が出ることや、主変圧器の性能にも左右されるため、同じMT52でも出力自体は直流電機に比べて低くなってしまうのです。

 駆動方式は国鉄電機ではおなじみの吊り掛け式駆動が採用されました。同じ時期、直流電機ではクイル式駆動が採用されましたが、ギアボックスが密閉できない設計に起因する砂埃の侵入により、異常振動を多発させるなどの問題を生じたため、旧来から実績があり信頼性の高い吊り掛け式駆動となったのでした。

 車体は1960年代初頭に設計された国鉄電機の特徴が色濃いもので、前面は非貫通とし、細いパノラミックウィンドウと、前部標識灯は前面中央上部に白熱灯1個を備えた、EF60やEF61とほぼ同じデザインになりました。

 車体側面は金属支持による細長い採光用窓が並び、同じ幅の給排気用ルーバーが並ぶ、国鉄新系列電機黎明期のデザインを踏襲し、全体的なデザインはEF61に近いものでした。

 屋上には当然ですが、交流電機の大きな特徴である特別高圧機器がひしめくように並び、碍子や特高回路を構成する導線が見えていました。これら特高機器が所狭しと設置されたため、パンタグラフは車端寄りに取り付けられていましたが、折り畳み時にはパンタグラフの一部が車体端部から少しはみ出るという、少々無理のあるレイアウトになっていました。

 1961年から製造された1次形は、翌1962年までに21両が製造されました。1961年に製造された1〜18号機は、昭和36年年本予算としての予算、すなわち国鉄自身の資金によってつくられましたが、翌年に製造された19〜21号機は昭和37年度第二次債務予算でつくられるという、いわゆる鉄道債券を発行して資金を調達するという借金でつくられました。既にこの頃から国鉄の財政事情は芳しいものではなかったようで、続く第2次車はすべて債務予算あるいは民有車予算(いわゆる5年分割払い)でつくられています。

 話はそれましたが、1962年につくられた19〜21号機は、形態こそ1次形ですが性能的には2次形でした。これは、主平滑リアクトルのコイルを変更したことによるもので、機関車出力は50kW上昇させて2,300kWになりました。

 

《次回へつづく》

 

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