旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

国鉄の置き土産〜新会社へ遺産として遺した最後の国鉄形〜 極限までコストを抑えつつローカル輸送に特化した改造近郊形電車 413系・717系電車【5】

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《前回からのつづき》

 

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 717系にはもう一つ、九州島内で運用することを前提に、これに特化した仕様の200番台もつくられました。種車は同じ交直流急行形電車ですが、すべて60Hz対応の475系からの改造で、小倉工場と鹿児島車両所(現在の鹿児島車両センター)で施工されました。

 仙台地区向けの0番台・100番台との違いは、九州の温暖な気候であることから雪切り室を設置しないなど、耐寒耐雪装備を省略した温暖地仕様でした。また、運用を想定していた日豊本線の輸送量は少ないため、3両編成では輸送力が過剰になることや、経営基盤が本州三社と比べて脆弱であることが予想されたため、Mc+M'cの2両編成が適当であると判断されたことでした。

 200番台で区分された九州向けの車両は、車体や接客設備などは413系と同じでした。幅1300mm両開きの乗降用扉を2か所設置し、車内はドア間はボックスシートを備え、ドア付近と車端部はロングシートとされるなど、同一の構造をもっていました。

 

九州向けに制作された717系は、東北仙台地区向けのとは異なり、輸送実態から2両編成を基本とした。そのため、すべて制御電動車で構成されていたため、中間電動車と制御車はなかった。タイフォンの位置が変わったため、413系や717系0・100番台にあった前部標識灯横にあったタイフォンカバーがなくすっきりした印象だった。(©Alt_winmaerik, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 電装品や台車、座席や網棚に至るまで、種車や廃車車両からの発生品を再利用しましたが、冷房装置だけは発生品の再利用ができませんでした。これは、2両編成を組むことを前提としたため、すべて制御電動車になってしまい、床下には冷房用電源である電動発電機を設置するスペースが取れなかったのです。そこで、冷房装置を集中式のAU710形を設置し、この電源として主変圧器の三次巻線から取り出すことにしたのでした。

 また、種車の475系は抑速ブレーキを装備していたので、200番台もそのまま抑速ブレーキを搭載しました。また、警音器、つまりタイフォン413系や0番台・100番台は前部標識灯の横に設置されていましたが、200番台は降雪による着雪を考慮しなくてもよいため、床下に設置しました。このことで、前面は他の国鉄近郊形電車と同じデザインでしたが、どこか物足りないスッキリした顔つきになりました。

 塗装もアイボリー10号の地色に、青23号の帯を巻く九州の標準色を施され、民営化後もこの塗装は引き続き使われました。

 7171系200番台のもう一つの特徴は、全車が国鉄時代に改造製作されたのではないことでしょう。1987年11月から落成した200番台は、最初の2編成(Hk201、Hk202)が小倉で、次の2編成(Hk203、Hk204)が鹿児島で製作されました。Hk204編成は国鉄最終日の1987年3月31日に落成しましたが、たった4編成で日豊本線の列車を賄うには不十分であることは容易に想像できることでしょう。おそらく、国鉄もそのことは承知していたと考えるのが自然で、200番台の改造はこれで終わりませんでした。

 1987年4月にJR九州が発足すると、200番台は引き続き製作されました。民営化後に継続して製作を続けた理由は、所要数が不足するということが考えられますが、それならば分割民営化までにすべて終わらせる必要があります。そうでなければ、国鉄の予算で費用を捻出することができず、新会社が費用を負担しなければならないからです。

 

717系200番台は分割民営化後も製作が続けられた。もっとも、国鉄時代に予算を確保し、制作そのものが決まっていたが、改造に携わる工場が飽和状態になってしまい、着工が遅れたことが原因の一つと推察される。後期改造車はさらに製作工数をゲラスことでコストを縮減することをねらい、戸袋窓を省略したためさらに印象が異なるものとなった。行先表示器の文字は九州独特の比較的小さめの角ゴシック体で書かれているの、いかにもJR九州らしい。(©Gala8357, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 しかし、0番台・100番台も郡山工場で製作された2編成(T-104、T-105)は1988年に落成していますし、413系も1988年から89年に落成しているものもありました。これは、あくまでも筆者の経験をもとにした予想ですが、工場では全般検査をはじめとした大規模検査を担っているため、車両の改造だけに注力することはできず、相応の時間がかかってしまいます。

 そのため、分割民営化までに一定数の車両を製作し、新会社が発足した後の落ち着いた段階で製作を再開したと考えられます。また、費用については国鉄時代に予算を確保しておいたり、あるいは国鉄の債務などを継承した国鉄清算事業団が、新会社の基盤整備事業として予算を捻出し、この事業の一環として新会社が改造工事を請け負う形で製作が続けられたと考えられるでしょう。(実際、筆者が鉄道職員時代にも、国鉄清算事業団による基盤整備工事として、新鶴見信号場や旧操車場跡地の整備工事が行われていました。)

 

《次回へつづく》

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