《前回からのつづき》
クモハ123形600番台は、牽引車クモヤ145形を種車に1988年登場。冷房化やワンマン対応など度重なる改造を経て、身延線で活躍しました。貫通構造を活かした2両編成運用も行われましたが、313系の導入により2007年に全車廃車。20年弱にわたり、富士の麓を走り続けた静かな功労車でした。
種車となったクモヤ145形は、前面が貫通構造でした。運転台も近郊形電車などと同様に高運転台構造としましたが、製造時の工数を可能な限り抑えるため、切妻の前面になりました。前面窓は縦方向に傾斜をつけなかった代わりに、中央部から側面方向に傾斜をつけたものでした。この前面窓の取り付け方法は、地下鉄線乗り入れ用として製造された301系や103系1000・1200番台のものとほぼ同じでした。もともと営業列車に充てることはない事業用車であったため、方向幕は中央の幕板部に1つのみ設置、前部標識灯と後部標識灯は前面窓下に左右1個ずつ配した、113系などとほぼ同じ位置になりました。
側面は旅客車化に改造するにあたって、大きく変化しました。
乗務員室扉はクモヤ145形時代のまま残され、その隣には幅1,100mmの片開き引き戸が設けられ、中央部にも同じ扉が設けられました。扉と扉の間には戸袋窓と119系とほぼ同じ上段下降・下段上昇のユニットサッシが設けられ、近郊形電車に類似したものとなりました。この構造は、国鉄時代に建設が進められていたものの、国鉄再建法の施行によって建設が凍結された瀬戸線と、既に開業していたものの膨大な赤字を生み続け、特定地方交通線に指定されてJR東海から経営分離した岡多線を引き継ぐ形で設立・開業した愛知環状鉄道の100系とほぼ同じ設計でした。

牽引車として製造されたクモヤ145形は、民営化後に車両の運用は保守管理の方法が変わったことで、その用途を失ってしまう車両もあった。特にJR東海は東海道新幹線以外は収益性が低いという経営環境に置かれていて、コストに対する意識が早い時期から高くなっていた。そのため、普段はあまり稼働することのない牽引車を用途廃止にして引退させた。用途を失ったクモヤ145形は、そのまま廃車・解体されるのではなく、新たに旅客車に改造されることになる。数少ない新性能1M方式電車であることがその命運を長らえることになり、クモハ123形600番台として身延線に投入された。側面は大幅に改造され種車の面影はないが、前面は貫通扉付き事業用車の特徴をそのまま残されたことで、この車両のかつての姿を垣間見ることができた。JR東海の標準車両ともいえる313系の増備によって2007年までに廃車となり区分消滅した。(©日本語版ウィキペディアのSphlさん, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
外観は3扉の近郊形電車に似たものでしたが、車内は混雑時の収容力を考慮してロングシートを設置した通勤形電車と同じ構造でした。この座席は、119系の一部を両運転台化改造するときに発生したものを再利用したことで、製作時のコストを抑えました。
1988年3月に浜松工場で落成した600番台2両は、身延線の運用を受け持つ静岡運転所に配置されました。しかし、落成から10か月しか経っていないその年の12月に、クモハ123-601は運用から外されて浜松工場に収容され、冷房化改造工事を受けました。翌年2月には、クモハ123-602も冷房化改造を施され、いずれも落成から1年以内に改造工事を施工するという、例を見ない早さでの冷房化でした。
この背景には、やはり1980年代終わり頃にあった、冷房化の進捗がどの程度進んでいるかといったマスコミの報道があるといえるでしょう。優等列車に冷房装置がついているのは当たり前、一般の列車にはどの程度冷房化が進んでいるのか、どの鉄道事業者が乗客の快適性を考えているのかといった報道は、利用者の関心を大いに集めたことでしょう。そして、鉄道事業者はこの手の報道によって、接客サービスの質を高めるためには既存の車両にも冷房装置を追加で設置し、新製車両にはそれが普通列車に使うことが前提のものでも、それを搭載するのが当たり前になってきたからです。
もちろん、JR東海もこうした世間の動きに敏感に反応しました。とはいえ、国鉄時代の改造メニューでは、時間もコストもかかってしまいます。そのため、40番台と同じC-AU711形集約分散式冷房装置を1基搭載することで、これらの課題を解決しました。しかし、C-AU711C形はインバー制御式であるため、電源は種車からそのまま引き継いだ70kVAの電動発電機を搭載していたことから容量に余裕があったため、ここから供給する方式にしたため、40番台のようなインバータ装置を搭載することはなく、冷房化改造後も改番はされませんでした。
冷房化改造を受けて、これでようやく安定した運用に就くと思いきや、1990年になると再び手を加えられました。1990年1月に、クモハ123-601は再度浜松工場に送られると、今度はワンマン運転に対応した設備を追加する工事を受けました。運賃箱や料金表表示器、そして整理券発行機を設置したのです。クモハ123-602も1990年3月に浜松工場に送られ、601と同じ工事を受けました。
こうして次々に改造工事が施された600番台2両は、ようやく本格的に運用に就くことになり、身延線でワンマン運転の列車を中心に活躍をしました。また、時意は2両編成を汲んだ列車にも充てられることがあり、この時には前面の貫通構造を活かすために、貫通扉には幌を取り付けることができるように改造し、2両貫通編成を組むこともできました。
2006年に313系の投入によって、先に投入された先輩格でもある5040番台の廃車が始まり、2007年3月のダイヤ改正までに多くが運用を離脱、廃車となって身延線を去っていった中で、600番台の2両は残り続けました。とはいっても、既にこの頃は風前の灯といった状態と言っても過言ではなく、5月になると601が、続いて6月に最後まで残っていた602が5042もついにその運命が尽き、運用離脱・廃車となったことで、JR東海における123系は廃系列となりました。
国鉄分割民営化後に余剰となった事業用車であるクモヤ145形を種車として、あまり例を見ない旅客車化を改造することによって誕生した600番台は、身延線の閑散区間を中心に、富士の麓を流れる川に沿った狭隘な地形に敷かれた鉄路を、観光客はもちろんのこと、地域の人々を乗せて20年弱の間、黙々とローカル輸送に徹したのでした。
《次回へつづく》
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