旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

国鉄の置き土産~新会社に遺していった最後の国鉄形~ 「魔改造?」出自が変わり種で国鉄最初で最後の1M方式旅客電車・123系【14】

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《前回からのつづき》

 

 台車は種車のものを再利用したため、枕ばねは金属コイルばね式で、軸箱支持をウィングばね式とした国鉄電車ともっとも標準となったDT21形を装着しました。

 クモヤ145形やクモル145形は主に平坦線区で運用することを前提としていたため、抑速ブレーキは装備していませんでしたが、クモユニ147形は前述の通り飯田線という勾配が連続する線区に投入することになっていたため、143系と同様に抑速ブレーキを装備、145系では省略された発電ブレーキも装備していました。

 こうした搭載した機器類の面で見ると、101系から改造し多くの機器を再利用した145系と、勾配線区での運用を想定した抑速ブレーキ・発電ブレーキをもった143系の両方の性格を併せもったような車両になったのです。

 クモユニ147形は、1983年に幡生や名古屋、吹田、広島の各工場で6両が続々と改造によって製作されました。落成後の配置は飯田線で運用する車両を受け持っていた豊橋機関区で、配置後は119系とともに飯田線で使われました。

 しかし、配置から2年後には早くも飯田線での郵便荷物輸送が廃止になってしまったため、本来の運用を失ってしまいました。1985年にわずか2年間だけ過ごした豊橋を去り、大垣電車区へ配置転換して東海道本線に残っていたクモニ82形やクモユニ74形といった旧性能電車の郵便・荷物車を置き換えたものの、翌1986年には国鉄の郵便・荷物輸送が廃止になったため、新天地での仕事も失ってしまったのです。

 結局、落成からたったの4年程度ですべての運用、そして担うべき役割そのものを失ったため、クモユニ147形は早くも余剰車両として廃車の運命を辿ることになりかけました。

 ところが、落成からたったの4年で、使い途がなくなったからといって簡単に廃車とはいきませんでした。改造とはいえ、それなりに資金を投じているのですから、そのようなことをすれば「無駄遣い」と批判されかねません。鉄道マン時代に資材管理と付帯する経理業務を担当した経験からすれば、会計検査院の監査では間違いなく指摘されることで、「多額の費用をかけておいて、5年もしないうちに廃車とは、無駄遣いも甚だしい。もっと見通しを立てていたのなら、古い車両を使い続けていた方がよかったのでは?」と厳しい指摘を受けていたことでしょう。

 国鉄としても、そのような指摘を受ければ、ただでさえ巨額の赤字を抱え込んだ財政事情もあり、会計検査院の指摘だけには留まらず、国会はもちろん世間からも非難を浴びかねないことでした。

 

1983年に飯田線の新性能化を推し進めるために、郵便荷物車についてもカルダン駆動の車両が必要になった。しかし、財政状況が破綻同然の国鉄にとって、地方ローカル線向けの車両を新製する余裕などなく、旅客車として登場した119系は電動発電機(MG)や空気圧縮機(CP)などの補機類の一部と台車は、廃車になった101系のなどの物を再利用することで製造コストを抑えつつ、飯田線の路線環境に合わせた性能と新たな車体をもたせることでつくられた。一方、郵便荷物車は119系よりもさらに製造コストを抑えるため、一部の機器を再利用するのではなく、101系を改造することで製作された。そのため、主電動機と台車は101系のものをそのまま使い、1M方式電車とするため主制御器は新製されたものを装備している。飯田線は連続した勾配があることから、降坂時に速度を抑える抑速ブレーキも装備していた。しかし、登場から僅か3年後には国鉄の郵便・手小荷物輸送が全廃になったため、僅か3年程度で用途を失い余剰車となってしまった。(©)

 

 そのようなときに、身延線の輸送量に適した新性能1M方式電車が必要であることと、勾配線区での運用に適した抑速ブレーキ・発電ブレーキを装備した1M方式電車のクモユニ147形が余剰車となってしまったこと、そしてこれを安易に廃車にすることができないことなど、様々な条件が重なり合ったことで、これを活用した車両を製作することになったのでした。

 余剰となり廃車もできないクモユニ147形を旅客車化改造によって製作しされた車両は、クモハ123形の形式を与えられました。0番台は比較的平坦な線区で、走行距離の短い支線での運用を前提としていたため、発電ブレーキ併用の電磁直通ブレーキを装備していましたが、新たに製作された車両は勾配が多い線区を長い距離走ることを前提としたため、種車の機器類を活用した抑速ブレーキを装備しました。そのため、新たに40番台に区分されたのです。

 分割民営化を直前に控えた頃、クモユニ147形の全5両は浜松工場に取り込まれました。そして、ここで特殊な構造や装備をもつ荷物室や郵便室を撤去し、新たに客室として必要な設備を備え付けられ、1987年1月にクモハ124-41~45no5両が落成しました。

 クモハ123形40番台は、0番台のうち中央本線辰野支線に配置したクモハ123-1に近い改造内容でした。車体の側面は郵便荷物車時代の構造は使わず、乗降用扉は車両の両端部に幅1000mm片開きの引き戸を設置、客室窓は119系と同じサイズのユニットサッシを7か所に取り付けました。

 車内は0番台と同じくロングシートを配置し、着席定員は少なくなってしまったものの、混雑時における収容力をもたせました。これは、閑散区間での運用を前提としていたため、混雑時に積み残しを起こしたり、それを想定して増結したりしなくても済むように考えられたといえるでしょう。

 車体の塗装はホワイト地(クリーム10号)に赤2号の太帯を窓下裾部分に巻き、前面には同じく赤2号で富士山をモチーフにしつつ身延線の「M」を図案化したマークが描かれた専用の塗装を身にまといました。

 このように、身延線専用ともいえるクモハ123形40番台は、全5両が静岡運転所に配置されて運用に就きました。特に富士宮以北の閑散区間では、輸送量の実態に合ったサイズの車両としての活躍が期待され、1両編成から必要の応じて2両編成を組んで、富士川に沿った狭隘な線路を走る姿が見られました。

 

《次回へつづく》

 

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