旅メモ ~旅について思うがままに考える~

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国鉄の置き土産~新会社に遺していった最後の国鉄形~ 私鉄車両に迫ったアルミ車体とチョッパ制御車・203系【12】

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《前回からのつづき》

 

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 203系は1982年に量産先行車として10両編成1本、10両が製造されました。新製配置は松戸電車区で、編成番号は「マト51」と付けられると、先ずは試験運用に充てられました。これは、国鉄としてチョッパ制御車とアルミニウム合金車体の組み合わせは初めてのことで、製造された車両が設計通りの性能を発揮できるかを、実際に走らせて確認するためのものでした。

 そして、新型車が登場したときの常として、国鉄はもちろん、乗り入れ先の営団それぞれの乗務員が実際に走らせる訓練にも充てられ、営業列車としてデビューするための準備を入念に行われました。

 同じ年の11月になると、常磐線の輸送力増強事業として工事が進められていた我孫子―取手間の複々線が完成し、ここを走る最初の列車として真新しい203系が充てられました。国鉄としては、混雑が激しい常磐線の利用客に対して、最新の203系を登場させることで、少しでもイメージアップを狙っての起用とも考えられるでしょう。

 その203系は、1982年に先行量産車10両が製造されると、その後しばらくは増備されませんでした。これは、当初は203系を103系1000番台の置き換えようとしてではなく、我孫子―取手間の複々線化完成と運転区間延長によって、国鉄車の運用が増えたことによる所要数の確保を目的としたためでした。しかし、営団からの再三に渡るチョッパ制御車の導入要請と、会計検査院の指導による国鉄から営団への電気料金の差額の支払い、そして何より103系1000番台の性能不足とそれなりに老朽化が進んでいたことから、本格的に置き換え用としての増備は1984年まで待たなければなりませんでした。

 こうして、先行量産車の登場から約2年がたった1984年に、本格的な量産車として10両編成7本、合計で70両が増備されて松戸電車区に新製配置となり、一部の103系1000番台を置き換えていきました。そして、新たにやってきた203系に追われた103系1000番台は、地方線区で残存していた吊り掛け駆動方式の旧性能電車である72系を置き換えるために、最小で2両編成を組んで運用を可能にしつつ、電動車比率を適正化させるために1M車への改造をによって105系となり、奈良線可部線などに配転されていったのでした。

 量産車の新製によって、203系は合計で80両という陣容になったものの、すべての車両をチッパ制御車化するには至らず、置き換えの対象にならなかった103系1000番台とは、203系とともに常磐緩行線・千代田線乗り入れの運用に充てられていました。

 

登場時は、運転士側窓上には「JNR」マークを入れていたが、民営化によってそれは「塞がれ」、代わりにJRマークの入った黒色地のステッカーが貼られた。21世紀に入ってもしばらくは運用が続けられたが、この頃になると技術の進歩もあって、引退は次官の問題と考えられたであろう。(パブリックドメイン

 

 この残った103系1000番台は、そのまま運用を続けることもあったことでしょう。この頃は国鉄が抱えていた巨額の債務と債権が社会問題になり、ただでさえ車両の新製は非常に難しいため、可能な限り抑えなければなりませんでした。そして、203系はチョッパ制御車であるとともに、アルミニウム合金車体なので新製にかかる費用は高価であるため、できれば103系1000番台をそのまま使い続ける方が得策と考えられたかもしれません。

 1984年はすでに国鉄の分割民営化は既定路線になっていたため、これによって発足する新会社に対して、老朽化した車両を置き換えるための車両の新製増備という「負債」を背負わせるのは適当でないと考えられたためか、1985年に追加で増備されることになります。

 苦しい財政事情の中から、高価な車両を新製する費用を捻出するため、前述の通り一部の仕様を変えて価格を少しでも抑えた軽装車と呼ばれる100番台が、10両編成9本、90両が新たに製造され、これが配置されると103系1000番台はすべて常磐緩行線・千代田線直通運用から退いていき、一部は常磐快速線成田線に転用されて、103系0番台とともに後輩である203系を横目にしながら、走り慣れた常磐路での活躍を続けました。

 また、残りの車両も経年が激しい武蔵野線の101系1000番台の置き換え用に転用されていき、常磐緩行線・千代田線直通運用はすべて203系に置き換えられたのです。

 その後、分割民営化直前の1986年11月になって、国鉄にとって最初で最後の営業用車のVVVFインバータ制御車である207系900番台の10両を加えて、千葉県北東部のベッドタウンから都心部へ通じる旅客輸送を支えたのでした。

 分割民営化によって全車がJR東日本に継承され、配置も松戸電車区のまま、国鉄時代と変わらぬ役目を担い続けることになります。この時に、前面の運転士側窓上と側面上部に表示されたJNRマークは消され、前面には同じ位置に黒字に白で描かれたJRマークを貼り付け、側面は車体の地色と同じシルバーのテープが貼り付けられ、代わりに乗務員扉国語の戸袋部に黒のJRマークが貼り付けられるという小さな変化がありました。

 一方、千代田線を運行していた帝都高速度交通営団も、2004年に国鉄と同様に民営化されてその歴史に幕を下ろし、新たに設立された東京地下鉄(通称:東京メトロ)引き継がれましたが、6000系もまた変わらず千代田線・常磐緩行線直通運用で活躍を続けていました。

 

203系の後継となったE233系2000番台。ほかのE233系が裾絞りのある拡幅車体であるのに対し、こちらは地下鉄線内の建築限界にあわせたため、直線断面の車体になった。最新のVVVFインバータ制御車であり、同時にJR東日本はその財力と、そもそもが車両製造の費用が抑えられていることもあって、一気に増備されっていった。そして、203系もそれに入れ替わるようにして、急速に姿を消していくことになる。(©MaedaAkihiko, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)

 

 しかし、2009年に後継となるE233系2000番台の増備が始まると、203系は徐々に置き換えられていくことになります。分割民営化からすでに20年以上が経ち、国鉄から継承し使い古された車両が急速に淘汰され始めた時期で、JR東日本としても車両の標準化によって保守コストを軽減する方策を推し進めていたのでした。

 

《次回へつづく》

 

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