《前回からのつづき》
カートレイン九州は西に向かう列車だったため、山手貨物線を走ってもその距離はごく僅かでした。しかし、カートレイン北海道は北へ向かう列車だったため、山手貨物線をほぼ半周しなければなりません。
その山手貨物線も、貨物線とはいうものの、実質的には通勤路線として機能していました。国鉄時代に開業した埼京線がそれで、新宿駅ー池袋駅間という短い区間ではあったものの、夕方のラッシュ時間帯になると多くの列車が運転されるため、カートレインのような臨時列車のダイヤを設定する余裕がなかったからだと考えられるでしょう。
こうしたことから、夜行列車としては異例ともいえる乗車時間の長さや発駅時刻の早さなど、利用者本位とは言い難い列車になってしまったといえます。それでも運行開始当初は、物珍しさと自分の車で北海道をドライブできるという、それまでになかった旅の概念が実現できるということも手伝って、それなりに盛況ではあったようです。
とはいえ、ほかのカートレインと同じように、年を追うごとに利用者も減少していきました。特に1990年代に入ってから新車販売された自動車は、モデルを変えるごとに大型化していきました。エンジン排気量に応じた自動車税の課税額が改正されると、それは更に拍車がかかっていきました。
しかし、カートレインが載せることのできる自動車のサイズは、1980年代半ばからずっと変わることはなく、言い換えれば「時代に取り残された」存在になってしまったといっても過言ではなかったのです。
また、カートレイン北海道はもう一つの特殊な事情を抱えていました。
カートレイン北海道が走る山手貨物線は、前述の通り埼京線も走るという、都心部のバイパスとしての役割を持つ特異な路線でした。その埼京線も、より利便性を高めようと恵比寿駅まで運転区間を延長し、さらには東北・高崎線方面と東海道・横須賀線方面を山手貨物線を経由して1本の列車で結ぼうとすうる構想のもと、山手貨物線は大規模な改良工事が始められたのです。これら一連の工事が完成した暁には、脚が遅い機関車牽引の列車など、臨時列車といえども入り込む余地はどこにもなかったのです。

東北新幹線の建設と引き換えに、沿線住民に対する理解の見返りとして開業した埼京線は、山手貨物線を活用することで新宿、渋谷などと埼玉県との利便性向上させた。既に山手貨物線を走っていた貨物列車のほとんどは武蔵野線経由に移されたため、線路容量に余裕があったためカートレイン北海道の運行を可能にしたが、通勤路線である埼京線は列車の運行頻度が高いため、機関車牽引で脚が遅いカートレインが入る余地がなくなり、短命に終わった要因の一つと考えられる。(©MaedaAkihiko, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
1998年の埼京線恵比寿延伸も控えたこともあって、1997年の夏をもって、カートレイン北海道もわずか9年でその看板を下ろすことになりました。そして、この廃止をもって本州を走るカートレインはすべて廃止になり、こうした列車は過去の記録になっていったのでした。
ところが、このカートレインをどうしても「諦めきれない」会社がありました。
広大な大地を営業区域とするJR北海道は、自社が管轄する路線の端から端まで移動した場合、丸一日も時間をかけることもあるほどでした。とはいえ、当時は現在のように高速道路が充実していなかったので、道内の長距離移動は鉄道がまだまだ主役だったのです。
また、航空運賃の設定が多様化し、早期の購入で大幅な割引をするなどしたことで、本州以南、特に首都圏から北海道への移動は鉄道から飛行機へとシフトしていきました。そのため、一時は人気が高くなかなか取ることのできなかった寝台特急「北斗星」も、利用者が減り始めるなど変化していきます。
そこで、JR北海道は従来の対本州からの移動を鉄道主体から、航空機を利用して道内に入る人々を取り込む施策に変えることにしました。とはいえ、そこから他の交通機関を利用されては、JR北海道としては利益を上げることはできません。
《次回へつづく》
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