7:急行「銀河」と寝台車の転換期|1966〜1968年の車両変更とヨンサントオ改正の影響
《前回からのつづき》
1966年には二等寝台車が10系軽量客車の一員であるオハネ17形から、戦前製のスハ32系の一員であるスハネ30形に差し替えられました。当時、最新鋭の車両から古いものへと戻されたのです。
といっても、このスハネ30形は戦前に新製された車両ではなく、戦後にスハ34形を改造して製作されたものでした。これは、二等寝台車が好評であったため多くの列車に組み込まなければならないものの、10系客車の車両自体の製造が間に合わなかったため、急遽、余剰気味だったスハ32系を二等寝台車に改造することで所要数を満たすためでした。
戦後の改造によって製作されたスハネ30形は、外観や車体こそ戦前製の古いものでしたが、車内は10系寝台車と遜色のないものだったといえます。寝台幅は二等寝台車としては標準的な520mmで、1区画あたりの定員を6名とした三段式寝台を備えていました。片側に通路を寄せ、枕木方向に寝台を設置したレイアウトは、後にB寝台と呼ばれる下等車では標準的なものでした。
1966年には、スハ32系に属するスハネ30形が連結された。戦前製の鋼製客車であるスハ32系であるが故に、外観は最新の10系よりも古いものだったが、車内の設備はナハネ10形などと同等であり、遜色のないものだったといえる。その一方で、スハネ30形が装着する台車はペンシルバニア形と呼ばれるTR23形を、10系は戦前製客車の台枠と台車を流用して改造製作されたオハネ17形(後に冷房改造によってスハネ16形)を除いて、軽量構造のTR50形だったが、乗り心地の面ではTR23形の方が格上だったと推測できる。これは、台車自体が軽量化されたものの、枕ばねの設定が不適切で硬くされたため、軽量車体と相まって不釣り合いだったためであるといえる。(©Memorin(上総っぽ◆C57/N774P.), CC BY 2.1 JP, via Wikimedia Commons)
もっとも三段式寝台であるため、座席として使うときは別として、寝台使用時の天地方向は今では考えられないほど低く、ここへ座ろうとすると頭がつかえてしまうほど窮屈なものでした。
オハネ17形の場合、下段680mm、中段650mm、上段689mmという寸法でした。これに対してスハネ39形は下段680mm、中段650mmと同じでしたが、上段は700mmを取ることができたため、オハネ17形より僅か12mm高くなっていました。もっとも、12mm程度では居住性に大きな影響を与えたとは考えられず、三段式寝台を備えた二等寝台車では、寝台を使うときはあくまでも深夜の就寝時間帯に限るとされ、乗客がここに座ることは考慮されていませんでした。どうしても寝台使用時に寝ること以外に使うのであれば、うつ伏せになって読書をする程度だけで、あとは通路の窓下に設置した補助椅子を使ってもらうことを前提としていたといえます。
▲ヨンサントオ改正直前の「銀河」の編成例。10系客車の寝台車は、この頃は冷房化が進められており、形式名もオハネフ12形を連結している一方で、多くの二等寝台車はスハネ30形のままだった。一方、寝台車の割合が多くなり、二等座席車は3両のみに留まるなど、寝台急行へとつながる編成を組んでいたことが分かる。
さらにいえば、寝台幅520mmというのも非常に狭いものでした。実際、現存するオハネ12形の寝台を観察すると、まるで通勤形電車の座席をそのまま枕木方向に設置し、そこに体を横にして寝るには無理があると感じたものです。この幅は、戦前製の旧形国電のロングシートよりも20mm広いですが、72系電車の座席幅が500mmだったので、これよりも20mm広くなった程度です。この狭い寝台はお世辞にも快適とはいえず、寝返りすることすら困難だったといえます。よくもまあ、この狭い寝台で横になって寝ることができたものだと思いもしました。
戦前製の2軸ボギー客車の台枠や台車などを流用し、車体を軽量客車である10系と同じものを載せてつくられた二等寝台車がオハネ17形だった。種車の台枠のサイズから新製車よりも500mm短く、台車も再利用のためTR50形ではなくTR47形を装着したため、時空も新製車の「ナ」級ではなく、それよりも1ランク重い「オ」級となった。しかし、急増する二等寝台車の需要に応えるため、新製と並行する形で改造が進められ、全部で300両以上がつくられた。後に冷房化によって重量がさらに重くなり、「ス」級となって改番、スハネ16形となった。(©永尾信幸, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
もっとも、この時代の日本人の標準的な体格は、今日よりも小さめであったことを考慮すると、必要最低限の広さを確保してあったと考えられます。また、当時はエコノミークラス症候群などという言葉もなく、狭いところに体を半ば固定させることが生命を危険にさらすことにつながるという知見もなかったので、こうした狭い寝台でも問題がないと考えられていたといえます。加えて運賃も安い二等寝台車であるため、できるだけ多くの乗客を乗せることにより、運賃収入を少しでも多くして採算を取る必要があったのです。
1968年のダイヤ改正、いわゆる「ヨン・サン・トオ改正」は、国鉄の列車にとって大幅な動きをもたらしました。特急列車網の全国展開と、優等列車のさらなる充実により、多くの急行列車が特急への格上げとなる形で増発、車両の大量増備とサービス改善といったことが実施されました。
オハネ12形の寝台を見ると、とても「快適な旅」とは言い難い狭さに驚く。幅520mmは今の日本人の体格はもちろん、昭和の時代でも窮屈だったと想像できる。故に「蚕棚」と揶揄されることもあったといい、とりあえず体を横にして移動できるといった代物だった。落下防止用の柵やベルトもないが、現役当時もこれだったら寝ることすらままならなかったかもしれない。(オハネ12 19 碓氷峠鉄道文化むら 2017年7月8日 筆者撮影)
そのことは、「銀河」にも大きな影響をもたらしました。
この年の9月まで、「銀河」とともに東海道本線の夜行急行として、深夜を移動する人々を乗せて走っていた寝台急行「明星」と夜行急行「いこま」が姿を消していきました。「いこま」は9111M・9112Mという列車番号が示すように、臨時列車ではあるものの東京ー大阪間を結ぶ電車急行でした。しかし、このダイヤ改正によって「いこま」は廃止になると同時に、東京ー大阪間の電車急行は全廃になりました。
▲ヨンサントオ改正時の「銀河」の編成例。スハ32系に属するスハネ30形はすべて編成からは外され、代わって冷房を装備したオハネ12形が連結されるようになる。この時点でも二等座席車は残っていたが、スハ43系のうち特急用としての設備をもったスハ44形とスハフ43形が組み込まれていた。
また、「銀河」とともに寝台急行として運転されていた「明星」も、「銀河」に統合される形で廃止になりました。とはいえ、「明星」という列車名そのものが消えたのではなく、新たに新大阪ー熊本間に設定された寝台特急としてその名を冠することになり、最新鋭の581系電車を使った電車寝台列車として運転されることになったのです。
そして、「明星」を統合した「銀河」は、このダイヤ改正から2往復体制になり、「明星」として運転されていた101レ・102レは「銀河1号」として、従来の「銀河」だった103レ・104レは「銀河2号」として運転されることになったのです。そして、「銀河1号」は東京ー大阪間を、「銀河2号」は東京ー姫時間を結ぶ寝台急行として設定されたのでした。
《次回へつづく》
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