旅メモ ~旅について思うがままに考える~

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寝台急行「銀河」の歴史|東海道を駆け抜けた名門列車の足跡と2008年の終焉【10】

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10:新幹線時代の急行「銀河」:併結化・縮小・20系化が語る夜行列車の生き残り戦略

《前回からのつづき》

 

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 それまで急行として運転されていた「瀬戸」が特急へ格上げの上、1往復に削減されます。同時に同じく急行「出雲」も特急へ格上げ、東京ー西鹿児島間を鹿児島本線経由で結んでいた急行「桜島」と、同じ区間を日豊本線経由で走っていた「高千穂」は食堂車の連結を廃止、「比叡」もまたビュッフェ車のサハシ153形での営業を休止するなど、長距離旅行客に対する食事や軽食の提供サービスの削減も含めて整理がされました。急行「東海」は東京ー名古屋間で運転されていた列車はすべて静岡止まりとされ、「東海」の全列車が東京ー静岡間の運転になりました。

 

東海道本線には多くの急行列車が運転されていた。しかし、新幹線の開業はこうした列車に大きな衝撃を与え、多くは廃止や運転区間の短縮を強いられていくことになる。新幹線は速くて便利ではあるが、その特急料金は在来線の特急料金よりも高く、まして急行の料金からすれば桁違いに差がある。そのため、それまで在来線で安価な急行を利用していた人たちにとって、手頃な移動の手段を失ったばかりか、新幹線への移行を促されたことによる実質の「値上げ」にもなった。これだけが理由ではないが、このような施策を繰り返すことが仇になり、「国鉄離れ」を引き起こす遠因になったことは否めないだろう。(出典:写真AC)

 

 「銀河」もまた、大きな影響を受けました。それまで2往復だったのが1往復に削減され、大阪ー姫時間の運転が廃止された上に東京ー名古屋間は急行「紀伊」と併結に改められ、もはやかつての「名士列車」の栄光は新幹線の前に見る姿もない状態になってしまいます。

 これに追い打ちをかけるかのように、3年後の1975年には山陽新幹線が博多まで全線開業に漕ぎ着けた一方、急行「桜島」「高千穂」が廃止になり、ついに東京ー大阪間を走はする昼行優等列車が姿を消してしまいました。

 一方、銀河の役割は新幹線が運転されない時間帯を移動するための列車として、そのまま存続することができました。そして、深夜の時間帯を走る列車としてより明確な位置づけになったためか、車両も寝台車主体の編成に組み替えられます。とはいえ、2両だけは普通座席車も連結され、かつての夜行列車の体裁を僅かに残していました。

 運転面でも一定程度の地位を確立したといえます。下り103レは東京22時45分発、大阪8時0分着に、上り104レは大阪23時10分発、東京9時36分着にほぼ固定され、このダイヤは1987年まで(上りは1985年まで)維持されることになります。細かいところをいえば、1975年のダイヤを基本としながらもダイヤ改正のたびに停車えきも変化していき、下り上りともに1978年から名古屋は通過扱いに、1985年からは浜松も同じく通過扱いになりました。

 

▲1975年と1978年の「銀河」時刻表。両社に大きな変化はなく、1978年に豊橋が通過となった程度である。後に浜松も通過扱いとなるが、変化することなく1986年までこのダイヤが維持されていることになった。

 

 この理由として、深夜帯であるため乗降する人が極端に少ないこと、かつては荷物輸送も担っていたため、これらの駅で荷扱(積み下ろし)があったため停車することが必須であったのが、鉄道による荷物輸送の減少もあって荷物車の連結が省略されたことがその要因と考えられます。

 実際、1975年の「銀河」の編成は、途中2号車にA寝台・オロネ10形を挟んで1~11号車まではB寝台のオハネフ12形やスハネ16形が連なり、12・13号車に普通座席車が連結され、従来は大阪方に連結されていた荷物車がなくなりました。

 

▲1975年の「銀河」編成例。二等座席車は2両にまで減り、あとはすべて寝台車という陣容になっていった。寝台車主体とすることで、寝台料金を収受できるという目論見もあったといえるが、座席車をすべて廃止にすると利用者からの反発も想定されていたためか、申し訳程度の数だけ連結していたといえる。

 

 1976年になると10系客車の老朽化と、従前は20系客車が担っていた寝台特急が最新の14系や24系に置き換えられたことや、寝台特急の削減などもあって多くの20系が余剰となり、急行への格下げによる運用が始められました。

 「銀河」もまた、老朽化した10系から20系へ置換えとなり、電源車はカニ21形を改造したカヤ21形が連結され、ブルトレ時代のように荷物を積むことができなくなっていました。この置換えによって、1号車にナロネ21形、その他はナハネ20形を主体に6号車にナハネフ23形、東京方最後尾となる11号車にはナハネフ22形が連結され、普通座席車の連結が廃止されました。

 

長らく「銀河」は10系やスハ43系で運転されてきたが、1976年になるとそれまで特急用として使われてきた20系が格下げとなったことで、「銀河」の運用に充てられるようになった。かつては「走るホテル」ともてはやされた20系だったが、B寝台は相変わらず三段式、それも幅550mmと狭い「蚕棚」と揶揄されるほどの窮屈なものだったが、14系や24系の投入によって寝台幅は700mmまで広げられたことで多少は改善し、特急としての面目を保った。一方の20系はもはや特急の運用には充てることが難しくなったことから、急行運用に充てていた10系を置き換える形で格下げとなった。それでも、「銀河」のような伝統ある列車にお古とはいえ、20系が充てられたことで設備面でも多少の改善はしたであろう。(出典:写真AC)

 

 この後10年間、「銀河」は20系による運転が続きました。かつては「走るホテル」とまでいわれ、豪華な設備をもってその栄華を誇った20系も、B寝台は旧来と変わらない幅520mm、天地方向は600~650mm程度の狭い空間しかない三段式寝台を備えていたのに対し、幅700mm、天地方向は1000mm以上という広い空間を確保した二段式寝台を備えたことで居住性を大幅に向上させた24系25形の前に、もはや陳腐化した設備で特急列車としての運用することは難しいといわざるを得ない状態でした。

 

▲20系化によって、すべて寝台車で編成を組むことになった。これをもって、名実ともに「寝台急行」と呼ぶにふさわしい列車となったが、従来は新形式がつくられると特急に並んで真っ先に新車が充てられていた「銀河」も、特急のお下がりを貰い受ける存在になってしまったことは、かつての「名士列車」の栄光も失せてしまったともいえる。

 

 当時はただでさえ国鉄に対する国民からの風当たりは厳しく、毎年巨額の債務による赤字を生み続け、それを解消するために相次ぐ運賃の値上げは、特に並行する私鉄が多い大都市圏で国鉄から移転する利用者が増加し、「国鉄離れ」という言葉すらできたほどでした。また、長距離に至っても安価な高速バスや旅客機の大衆化によって、もはや鉄道は人々の移動手段において優位性を失っていました。さらに急行から特急への格上げという、穿った見方をすれば「美辞麗句」による実質の値上げも、「国鉄離れ」を加速させることになります。そして、陳腐化した車両や一部の職員のモラル低下などは、サービスレベルを大きく下げていました。

 このような厳しい中で、古びた車両をいつまでも使い続けることは困難で、新たな車両の導入も望まれるものの、既に国鉄にはその財力も体力もない状態で、優等列車とはいえ、料金が安価な急行に大きな設備投資をできるわけもありませんでした。そのため、つか古され余剰となった20系が運用され続けることになりましたが、さらに10年が経つ頃になると、その老朽化は如何ともし難いものになっていました。

 

《次回へつづく》

 

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