3:戦後の伊豆観光を復活させた列車──湘南準急「いでゆ」と80系「あまぎ」の誕生
《前回からのつづき》
第二次世界大戦が終わると、戦時体制も解かれることになりますが、鉄道輸送は違った意味で混乱した状態が続きました。戦時中は軍需物資の輸送が最優先とされ、貨物輸送に重点を置かれた一方、旅客輸送は必要最小限のものとされ、優等列車はほぼすべてが廃止された状態になっていました。しかし、終戦後は軍需物資の輸送がなくなったことで貨物輸送は大幅に減ったことに対して、旅客輸送は戦地から戻ってきた将兵の復員輸送や、物資の不足による買い出しに出かける人々で溢れたことで逼迫しました。
そうした混乱も徐々に落ち着きを見せ始めた1949年になると、1942年以来絶たれていた観光輸送を目的とした列車として、東京ー伊東間に準急列車の運転が始められました。この準急は毎週土曜日のみに下り列車1本のみと限られたものでしたが、それでもこのような列車の運行は戦後の混乱と、戦時中の空爆によって灰燼となったことによる絶望に等しい中から復興へと立ち上がった象徴といえる出来事だったと考えられるでしょう。
そして、この年に新たに運行が始められた準急は、戦前の準急とは異なり準急料金が設定されました。戦前の準急は今日の快速にあたる位置づけであったのに対して、戦後の準急は急行列車と同等と考えられました。
しかし、急行として運行するには運用に充てられる車両の設備が見劣っていたことや、速度の面でも劣っていたことから急行料金よりも安くせざるを得ないかったからでした。とはいえ、乗車券のほかに準急料金を必要としたことで、いわゆる優等列車の仲間入りをしたと見做すこともできます。
この東京ー伊東間で運行が始められた準急は、湘南準急とも呼ばれていました。運行開始から2ヶ月後の4月には、湘南準急に熱海から丹那トンネルをくぐり抜けて、三島から駿豆鉄道線へと乗り入れる列車の併結が行われるようになり、西伊豆や中伊豆にも東京から直接訪れる利用客輸送が再開されました。
そしてこの年の6月になると、それまで国が直接運営していた鉄道は、新たに設立された公共企業体である日本国有鉄道に引き継がれました。そしてその年の10月には、東京ー大阪間で運行されていた特急には「平和」、急行には「銀河」と愛称がつけられました。一方でこれらの列車と比べて短い距離を走る準急にも愛称がつけられ、東京ー伊東間を走る湘南準急には「いでゆ」と名づけられ、それとともに下り列車が土曜日に、上り列車が日曜日に運転されるようになります。

戦時体制の中、戦況の悪化などによって国鉄の特急列車は一度途絶えたが、戦後になってこれが復活。当初は列車名がつけられていなかったが、1949年に日本国有鉄道設立直前に「へいわ」と名付けられたことが列車名の復活となった。当時、特急は「へいわ」、急行は「銀河」と長距離列車に列車名がつけられたが、東京ー伊豆間を結ぶ準急にも「いでゆ」などの列車名がつけられた。ちなみに、「へいわ」は後に「つばめ」と改められ、伝統の列車が名実ともに復活したことは、戦後の復興期を象徴するといえるだろう。(©Cassiopeia sweet., Public domain, via Wikimedia Commons)
この時点で愛称をつけられた列車は前述の「平和」と「銀河」だけだったので、ほかの特急や急行を差し置いて近距離準急に愛称をつけたのは異例のことだったといえます。それだけ、国鉄にとって東京ー伊豆間を結ぶ観光客輸送に特化したこの列車に対する期待は大きかったと想像できるのです。
その期待を表すかのように、その年の12月になると湘南準急のファミリー化が始まりました。東京ー三島・修善寺間に土曜に下り、日曜に上りそれぞれ1本ずつを増発させた準急「いこい」の運転をはじめました。
この2本の準急は客車による運転でしたが、首都圏の人々にとって身近な保養地に向かうことができる列車として好評だったのでしょう、翌1950年10月になると国鉄にとって優等列車の大きな転換となる列車が増発されます。
東京ー伊東・修善寺間に新たな準急が設定され、この列車は「あまぎ」と名付けられました。後に特急となり、さらには今日も運転されている「踊り子」の直接のルーツとなる列車でしたが、この湘南準急「あまぎ」はそれまで国鉄の中・長距離列車は客車による運転がセオリーだったのを打ち破り、最新鋭の80系電車がこれに充てられました。
《次回へつづく》
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