旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

悲運の貨車〜物流に挑んだ挑戦車たち〜 効率輸送を目指したピギーバック用車運車・クム1000【3】

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《前回からのつづき》

 

 1989年に新たなピギーバック輸送用車運車として開発されたクム1000系は、コキ100系と併結が可能な性能をもつ車両でした。応荷重装置付電磁自動空気ブレーキを装備し、最高運転速度110km/hでの運転を可能にしました。台車もコキ100系と同じFT1形を装着することで、補修用部品や検査手順を共通化し、運用コストを可能な限り抑えることを可能にしたといえます。

 車体はクム80000形と同様に平床とし、タイヤガイドと緊締装置も装着されました。

 積載するトラックも共通とされ、荷台のアルミバンの屋根を丸屋根にして車両限界に合わせ、扁平タイヤを装着した専用仕様の4トントラックを2台積載できました。また、トラックの積み下ろしもクム80000形と同じ、トラックが自走する方式とし、車両間は渡り板を使うことで、専用の荷役機械を必要とせず、比較的スムーズに積み下ろすことを可能にしました。

 クム1000系はクム1000形とクム1001形の2形式から成り立っていました。これは、コキ100系がコキ100形とコキ101形のそれぞれ2両ずつ、4両1ユニットで構成された板野と同じ設計思想によるもので、クム1000系もクム1000形とクム1001形の2両1ユニットで運用する設計でした。クム1000形には電磁弁を装着していましたが、クム1001形はこれを省略しました。この設計思想は、ユニットを組むことで装備する機器などを一部省略し、製造コストと保守コストの軽減をねらっていました。

 ただ、2両1ユニットでの運用には制約も多く柔軟性に欠くことから、後に1両単位で運用が可能なクム1000形500番台も製造され、こちらは前部で54両がつくられました。

 車体はファストブルーと呼ばれる明るい青色で、台車はねずみ色1号で塗装されました。この塗装と、車体強度を保つための魚腹台枠という外観が、一見するとコキ100系にも見えるものでした。

 コキ100系と併結できる性能をもったクム1000系は、1989年6月に営業運転に投入されました。当初の計画通り、東海道山陽本線高速貨物列車に充てられ、それまで運用されていたクム80000形は、上越線方面の列車に転用されて東京ー新潟間で使用され、ピギーバック輸送の拡大に貢献しました。

 また、1990年になると、東京ー梅田貨物間にクム1000系を22両とコキ100系を4両連結した26両編成の高速貨物列車の運行がはじめられました。従来はコキ車が中心で、ピギーバック用車運車は「おまけ」のようなものだったのが、それが逆転してピギーバック主体の列車が登場したのでした。この列車には運送会社11社が利用し、当時はそれだけ、トラックドライバーの不足が深刻となっていたことを物語っていたといえるでしょう。

 しかしながら、好調だったピギーバック輸送も長続きはしませんでした。

 筆者が貨物会社に入社した1991年になると、それまで旺盛だった鉄道貨物輸送の需要が減少に転じていきました。バブル経済の崩壊によって、国内の景気は急激に冷え込んだことで、国内の貨物輸送量も落ち込み始めます。そこへ、平成3年台風21号がもたらした大雨によって、武蔵野線新小平駅が水没し、貨物輸送の大動脈の一つだった武蔵野線が長期にわたって不通となり、多かれ少なかれ荷主は再びトラックへの回帰してしまいました。

 この影響もあってか、輸送効率の低いピギーバック輸送は通常のコンテナ輸送と比べて急激に需要が落ち込んでいくとともに、貨物輸送の運賃にトラックの自重が加算される運賃改正が行われ、さらに追い打ちをかけるようにトラックの需要も低下したことによって、それまで困難だったドライバーを確保しやすくなったことから、ピギーバック輸送の存在意義が薄れてしまったのでした。

 

バブル経済の崩壊によって貨物輸送量は激減し、ドライバー不足に悩まされていたトラックも輸送量が減ったことによって解消されていった。そのことにより、徐々にピギーバック輸送の需要も低下していく。欧米では旺盛な需要があっても、日本の場合、車両限界が世界の鉄道と比べて小さく、ピギーバック輸送に使うトラックもこれに合わせた特殊なサイズになることや、積載されるトラックにも運賃がかかるという制度設計の欠点から、次第に荷主が離れていってしまった。写真は規定のサイズを超える「ハローマーク」を貼付したUR19A形コンテナ。JR貨物はコキ100系に積載することを条件に、規格外のコンテナを運用している。隣の車両に積載している規格内コンテナと比べて、大きな違いは見られないが、僅かに幅が広いことから規格外とされた。このように、日本の鉄道では欧米のように道路上を走るトラックをそのまま載せることが非常に難しい。(コキ104-1173 新鶴見信号場 2021年7月26日 筆者撮影)

 

 それでも、JR貨物はピギーバック輸送をすぐには取りやめることはしませんでした。それどころか、タンクローリーを輸送するためのクキ1000形を開発し、営業運転に投入したのです。

 このようなJR貨物の粘りも虚しく、ピギーバック輸送は年を追うごとに需要がなくなっていき、専用の列車の運転も取りやめが相次いでいきました。そして、2000年3月のダイヤ改正をもってピギーバック輸送はすべて廃止になり、クム1000系もその仕事を喪失してしまったのです。

 ところが、すべての運用を失った後も、クム1000系はすぐには廃車になりませんでした。1989年の登場から11年しか経っていなかったため、減価償却の期間がまだ過ぎていなかったのがその要因の一つとして考えられます。そもそも、鉄道車両減価償却の期間は税法上13年と定められていたため、使い途がなくなったからといっておいそれと廃車にすることができなかったと考えられるのです。

 運用を失った後も、そのまま留置されたままとなり、104両のクム1000系はコキ車が活躍しているのを眺めているだけでした。使われないまま駅や車両所などで半ば放置同然となってしまいました。

 その後、景気は好転するどころか低迷を続け、ピギーバック輸送は復活することはありませんでした。そして、2002年になるとクム1000系にはようやく今後の処遇が決まり、製造からわずか13年で全車が廃車となり廃系列となりました。

 バブル経済によってこの世の春とばかりに謳歌した人々も、その崩壊によって夢に描いたバラ色の未来は音を立てて崩れ去り、人生設計を狂わされたケースが多くあったことでしょう。クム1000系もまた、バブル経済の申し子といっても過言ではなく、誤解を恐れずにいえばそうした異常ともいえる経済状態に翻弄された悲運の貨車ともいえます。しかし、当時はそれがベストの選択であり、不足するトラックドライバーの穴埋めのため、ピギーバック輸送は旺盛な物流の需要を支えたことは間違いありません。しかし、平成の時代に誕生しながら、実際の運用は僅か11年で終わり、そして新製からたったの13年で廃車解体の末路を辿った鉄道車両は、例を見ない悲運なものでした。とはいえ、輸送力増強という課題に一つの答えを提示した功績は決して小さいものではないと癒えるでしょう。

 

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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