旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

異色のロマンスカー 乗務員まるごと国鉄線へ乗り入れた「あさぎり」【3】

広告

《前回からのつづき》

 

blog.railroad-traveler.info

 

 1955年に計画通りにキハ5000形を使って、新宿駅御殿場駅間を結ぶ列車の運行を始めることになります。しかし、ここでもう一つの問題を解決しなければなりませんでした。

 それは、このキハ5000形を運転する運転士の確保でした。

 小田急は全線が電化された鉄道事業者です。そのため、小田急の運転士はすべて電車の運転しか経験がありません。鉄道車両の運転なんて、電車も気動車も同じではないかと思われる方ももしかしたらおられるかも知れませんが、見た目は似ていても全く異なるのが鉄道車両の運転です。

 電車も気動車も、基本的な運転操作は共通しています。マスコンハンドルを回して電車であれば主電動機に電流を送り、気動車であればエンジンの回転数を上げます。しかし、電車の場合は自動進段であれば、マスコンハンドルをいきなり最大ノッチまで上げても問題はありませんが、気動車の場合は起動時は1ノッチ、加速していったら次のノッチへ切り替えるなど、細かいところで異なるのです。

 また、異常時の対応も異なります。そのため運転士は、操縦する車両の特性や構造を熟知していなければなりません。電車であれば、電気に関する基礎知識はもちろん、制御器や主電動機の構造、加速の原理などについての知識が求められます。

 対して気動車の運転士は、機械に関する基礎知識や内燃機関の構造、変速機の種類や特徴などについての知識が必要です。そのため、1956年に施行された「動力車操縦者運転免許に関する省令」では、電車や電気機関車を操縦する者は「電気車操縦免許」を、気動車ディーゼル機関車を操縦する者は「内燃車操縦免許」と異なる資格を取得するようになります。当然、動力車操縦免許の教習課程も異なるので、それに対応した課程を開講する教習所に入所しなければなりません。

 小田急には電気車の教習課程を開講する教習所はありましたが、内燃車の教習課程の教習所はありませんでした。そこで、キハ5000形に乗務する運転士を、国鉄の内燃車教習課程を開講する鉄道学園に派遣して、気動車の操縦に関する教育課程を受講させたのでした。また、同時にキハ5000形の検修に携わる車両技術者も、国鉄に派遣して気動車の検修に関する教育課程を受講し、必要な要員の養成をしたのでした。

 こうして、小田急から御殿場線へ乗り入れる列車の運行の準備が整ったのですが、もう一つ、問題を解決しなければなりませんでした。

 キハ5000形を使った直通運転は、小田急線内は小田急の乗務員が担うのは当然です。通常の直通運転では、列車はそのまま相手方に乗り入れますが、乗務員は授受駅で交代します。これは、乗務員は自社の路線に関しては駅の位置や、閉塞区間、線路の線形や勾配などといった情報を熟知していますが、乗り入れ先の路線については知ることはありません。

 例えば、運転士は駅間の距離から、曲線の場所やそこでの制限速度、勾配の場所とその緩急、信号機や分岐器の位置を熟知し、実際の列車の運行ではそれに対応した運転操作をしています。しかし、乗り入れ先は他の鉄道事業者の路線なので、そうした細かな情報を知ることはないのです。

 

気動車が導入されるまで、御殿場線は蒸機の独壇場でもあった。箱根山の麓である御殿場に向かって連続した勾配が続き、最大で25パーミルもの急勾配があるため、列車重量は大きく制限されていた。その、険しい勾配に挑んだのが国鉄蒸機最大の出力をもったD52形だった。もっとも、D52形は戦時設計の蒸機であり、簡略化した設計と工作精度の低さ、そして代用材の多様と粗悪なつくりでもあったため、ボイラー爆発という致命的な事故も頻発させた。それでもその出力はD51形を上回るものがあり、戦後は状態が良好な車両を中心に改修整備が施され、1979年に全車が廃車されるまで運用された。御殿場線のD52形は国府津機関区と沼津機関区に配置され、後に国府津区に集中廃止された後、1969年まで箱根裏街道の険しい道を走り続けた。(D52 71〔国〕 御殿場駅前 筆者撮影)

 

 ところが、キハ5000形が御殿場線へ乗り入れるのに、国鉄側にはこれを運転できる乗務員がいなかったのです。

 1955年の直通運転を開始した時点で、御殿場線はまだ電化されていませんでした。キハ50形を使った列車も運行されていましたが、それは1957年まで待たなければなりませんでした。この当時の主力は蒸機であるD52形で、ほとんどが蒸気の機関士で、気動車の運転士は皆無だったのです。また、キハ50形投入後も、気動車の運転士は少数でした。ただでさえ、国鉄の労使関係はよいとはいえず、特に長い伝統をもつ蒸機の機関士は、電車や気動車の導入に消極的だったといいます。後に御殿場線にも気動車が投入されたものの、機関士が気動車の運転士に転向することは「格が下がる」として、蒸機全盛のこの時代に乗り換える人はあまりなかったと考えられます。

 実際、筆者が鉄道職員だった頃も、機関士は高いプライドをもつ人が多数いました。もちろん、プライドをもって仕事をすることは悪いことではありませんが、中には「機関士は格上、地上で勤務する者は格が下。操縦が簡単な電車や気動車の運転士も格下の存在」と見る人もいたので、ある意味では面倒なものだと感じたものでした。

 こうしたことが背景となり、国鉄側では気動車に乗務する運転士の確保ができないことから、小田急の運転士と車掌が、直通先の御殿場線にそのまま御殿場線に乗り入れる乗務員運用をすることにしたのです。

 そのため、直通運転をする列車に乗務する運転士と車掌は、御殿場線で習熟運転を受けた後、国鉄の考査に合格した者が御殿場線も含めて乗務するという、日本の鉄道、とりわけ国鉄において類を見ない、私鉄の乗務員が国鉄線に乗務することになったのです。

《次回へつづく》

 

あわせてお読みいただきたい

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info