旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

異色のロマンスカー 乗務員まるごと国鉄線へ乗り入れた「あさぎり」【4】

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《前回からのつづき》

 

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 1955年10月1日のダイヤ改正で、キハ5000形を使った御殿場線直通の特急列車の運行が始められました。列車はすべて新宿駅から小田急小田原線を経由し、国鉄御殿場線御殿場駅までの2往復が設定され、1往復は「銀嶺」、もう1往復は「芙蓉」と富士山にちなんだ名前が選ばれました。

 「銀嶺」「芙蓉」ともに小田急線では特急扱いとし、御殿場線では準急列車として運行される特異な形態でしたが、とりわけ優等列車がない御殿場線沿線では好評で、季節によっては多くの利用者があったようでした。また、御殿場には陸上自衛隊の駐屯地など多くあり、特に東京への異動などでは、御殿場から直接東京都心へ行くことのできる列車として多く利用されたようです。

 このように好評を得た直通列車でしたが、やはりキハ5000形のシートピッチの狭さはいかんともしがたく、これについては苦情が出るほど不評でした。しかし、増備車となるキハ5100形では、固定式クロスシートを片側10組、合計20組設置して、座席定員を82名に減ったものの、シートピッチは1520mmまで拡大して改善を図りました。このシートピッチは、国鉄の準急用気動車であるキハ55系の1479mmよりも広く取られたことで、国鉄車に負けない居住性を実現し、小田急優等列車用車両としての面目を回復したのでした。

 このように、直通列車が好評だったこともあって、1959年には列車の増発が実施されました。それまでの「銀嶺」「芙蓉」に加え、「長尾」「朝霧」の愛称が加わり、4往復体制にまで成長しました。そして、「長尾」は御殿場から箱根へと至る峠の一つである「長尾峠」を、「朝霧」は富士山の南麓に広がる「朝霧高原」から取られた愛称であるとともに、ここで「朝霧」という名が登場したのです。

 4往復体制になった直通列車は、従前の通り小田急線では特急扱いの特別準急列車として、御殿場線では準急列車としての運行は変わりませんでした。

 その後、大きな変化がなく、これら4つの直通列車は順調に運行を続けていましたが、1968年になると大きな転換期を迎えます。それまで非電化のままだった御殿場線がようやく電化されることになり、キハ5000形とキハ5100形による直通運転も終焉を迎えます。代わりに、箱根・江ノ島特急で運用されていた連接構造をもった3000形SE車を5両編成に改造し、御殿場線直通の特別準急列車に充てることになったのです。

 御殿場線電化による3000形SE車への置き換えとともに、それまで4本の列車はそれぞれ別々の愛称が付けられていましたが、この改正と同時に愛称を統一することしました。そして、「銀嶺」「芙蓉」「長尾」「朝霧」のうち、「朝霧」が採用されるとともに、表記も漢字からひらがなの「あさぎり」に代えられました。

 1968年7月から3000形SE車による特別準急「あさぎり」の4往復が運転が始められましたが、この時も乗務員は運転士・車掌ともに、気動車時代と変わらず小田急の乗務員が国鉄線へそのまま越境して乗務するという特異な形態は残されました。

 気動車時代は御殿場線気動車の運転をすることができる運転士がいなかったことが理由でしたが、電化されれば国鉄側にも電車を運転することができる運転士がいるので、こうした越境乗務は解消されるのが一般的です。

 

準急用気動車として登場したキハ55系は、非電化区間優等列車気動車化する立役者だった。車内はボックスシートが並ぶ客車時代と変わらぬ設備をもち、小田急国鉄連絡準急用として製造したキハ5000形も、これに倣ったものであった。また、駆動用エンジンは国鉄制式のDMH17系を搭載するなど共通点もあったが、車両サイズは小田急線内の「地方鉄道定規」に合わせたため、キハ55系と比べるとほっそりしたものだった。(パブリックドメイン 筆者にて鮮明化処理)

 

 この、私鉄の乗務員が国鉄線内も乗務するという異例の措置は、小田急から乗り入れてくる3000形SE車の構造に由来するものだったと推測できます。3000形SE車は連接台車を装備した構造であり、国鉄にはこのような車両は皆無でした。また、電化当初の御殿場線に配置された電車は、都心部での役割を終えて突き出されてきた吊り掛け駆動のいわゆる旧型国電が主力であり、高速で走行できる高性能な3000形SE車を扱うことができる運転士がいなかったことが理由として考えられます。

 それだったら、国鉄の運転士にも3000形SE車の習熟運転などを通して養成すれば済む話ですが、現実にはそうすることが非常に難しかったといえるでしょう。その理由として挙げられるのが、国鉄の労使関係の悪さだったといえるでしょう。堅実で実績があり、扱いなれた吊り掛け駆動の旧性能電車に乗務することが常の国鉄側の運転士にとって、カルダン駆動の、それも国鉄では導入実績のない連接台車を装備した革新的な構造である3000形SE車は、同じ「電車」でもまったく異にする別物です。ブレーキ操作一つをとっても、前者は自動空気ブレーキ、後者は発電ブレーキを併用した電磁直通ブレーキと、ブレーキハンドルの外観は似ていても、異なるものだったのです。すなわち、3000形SE車に乗務することは、彼らにとって「仕事が増える=労働の強化」だと映ってしまうのでした。

 そのような国鉄の「お家事情」もあったのでしょう、3000形SE車が「あさぎり」として乗り入れる際にも、気動車時代と同様に国鉄の考査に合格している小田急の運転士と車掌が御殿場線内も乗務した方が、面倒な労使交渉をして労働組合側の了解を取り付ける必要もなく、また、国鉄の運転士や車掌に教育訓練をする手間も省くことができ、事はスムーズに運ぶと考えられたのです。

 こうして、御殿場線の電化後に乗り入れることになった3000形SE車は、気動車時代と同様に、御殿場線内も小田急の運転士と車掌がそのまま乗務するという、類を見ない形態の乗り入れが継続されたのでした。

 

《次回へつづく》

 

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