《前回からのつづき》
7200系アルミ車がこどもの国線で来園客を中心とした輸送に勤しんでいた頃、長津田で接続している田園都市線の混雑の激しさは深刻な状態になっていきました。開通当時は人家もほとんどなく、未開の山々や農地が中心だったのが、年を追うごとに開発の手が入り、沿線の人口は爆発的に増加したためでした。そして、この混雑を緩和しようと車両の増結をして最終的に10両編成となったものの、根本的な解決には至りませんでした。
そこで、列車を増発することで混雑の緩和を図ることにしますが、ATSではこれ以上の閉塞区間の短縮は難しいことから、田園都市線と新玉川線の保安装置をATCへ更新することになったのです。
ところが、田園都市線の保安装置をATCに切り替えると、東急線の電気設備などの維持管理に貢献してきた電気検測車のデヤ3000形と、車両回送のときに牽引車として運用されてきたデハ3450形3498号車の運行ができなくなってしまいます。どちらも吊り掛け駆動の旧型車で、ブレーキ装置は自動空気ブレーキを使っていたため、ATCへの切り替えに対応できなかったのです。
そこで、デヤ3000形とデハ3498の代わりとなる電気検測車と牽引車が必要となったため、新たな車両を改造によって製作することにしました。そして、この改造種車として選ばれたのが、7200系アルミ車の2両だったのです。
1989年に9年間にわたってこどもの国線での運用を終えた7200系アルミ車は、その任を7000系に託して退いていき、改造工事を受けることになります。デハ7200は電装品などはそのままとし、連結面側に運転台を増設して両運転台化、乗務員用扉も設置されました。
東急車輌のアルミニウム車製造技術を習得させるために、7200系の設計をそのままに製造されたデハ7200とクハ7500は、外観はステンレス車と大きな違いはなかったが、側面幕板部にコルゲートがないのが特徴だった。新製後は他の車両と共通で運用されたが、こどもの国線で運用されていたデハ3608+クハ3772の老朽置換え用として運用から抜かれ、こどもの国マークを添付するなどの改装を施して、同線の運用に充てられた。その後、田園都市線のATC化により従来の事業用車が使えなくなることから、アルミ車は事業用車としての改造を受け、デヤ7200形とデヤ7290形となって、東急全線の架線検測のほか、目蒲線・池上線の車両を長津田へ回送するときの牽引車として使われた。後にサヤ7590形を挟んで軌道検測も行えるようになったが、機器の老朽化・陳腐化や、信号保安装置や無線通信装置の検測も可能な7500系に置き換えられた。廃車解体に際してデヤ7200は、東急グループがスポンサーとなっているJリーグ・川崎フロンターレの試合前イベントで等々力陸上競技場前で展示された。(©Yaguchi, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
制御車だったクハ7500の改造内容はさらに大掛かりになり、7600系化改造で不要になった種車の電装品を流用して電動車化。さらにデハ7200と同様に両運転台化し、車両中央部の屋根の高さを低くし、ここに架線検測用のドームを設置し、集電装置を2個設けて電気検測車とされたのでした。そして、形式もデヤ7290形と改められ、デハ7200(後にデヤ7200形に形式変更)とともに、上半分を黄色、下半分を青、その間に赤の帯を巻くという非常に派手な塗装となったため「派手車」という愛称をつけられたのでした。
事業用車に改造された7200系アルミ車は、保安装置をATCへ更新されたことに伴う改造だったため、8500系と同様にCS-ATCを装備しました。そして、運転台機器も従来の主幹制御器(マスコン)と制動弁(ブレーキ弁)が独立したツーハンドル式から、東急の車両では標準のものとなっていたT字形ワンハンドルマスコンへ交換され、ブレーキ装置も電磁直通ブレーキのままワンハンドルマスコンに対応した電気指定式に近い構造に改造されたのでした。
こうして登場したデヤ7200形とデヤ7290形は、検測走行のときには2両編成をくんで東急線全線を走行しました。さらに牽引車としての役割を担うことにしたため、ATCに対応していない車両を長津田工場へ回送するときには、両端に「派手車」を連結して挟み込むようにした運用にも充てられたのでした。
東急では、電気検測は自前の車両で実施していましたが、軌道検測についてはそれがないため、国鉄・JRからマヤ34形を借り入れて行っていました。いわゆる「マヤ検」とよばれるものですが、これを牽引していたのは自動空気ブレーキを装備した旧型車のデハ3450形でした。しかし、デハ3450形が老朽化によって廃車されると、マヤ34形を牽くことができる車両が東急にはなくなってしまったのでした。また、検測のたびにJRから借り入れなければならないことや、借入のときには長津田の授受線で受け渡しの作業が伴うなど煩雑なことから、軌道検測車についても自前の車両を用いることにしたのでした。
1998年に、最後の7200系となるサヤ7590形が製造されました。形式こそ7200系の一員ですが、事業用車であることやオリジナルの7200系の製造からすでに30年以上が経っていたので、車体の設計は当時最新の技術と手法が使われたため、東急として初めてコルゲートやビートのない平滑なステンレス車体になったのでした。
サヤ7950形は、はじめから事業用車として設計されたため、側窓は4箇所しか設けられませんでした。そして、営業用車から改造したデヤ7200形やデヤ7290形とは異なり乗降用扉はなく、代わりに検査技術者が使う乗務員室扉が1箇所だけ設けられただけでした。
そして塗装も、先に改造された2料と同じく、黄色と青色、そして幕板部には赤帯を配した派手なもので、「派手車」どうし3両編成を組んで、電気検測とともに軌道検測もできるようになり、東急線とみなとみらい線で高速検測車として運用されるようになりました。
2012年になると、7200系アルミ車から改造された2両の事業用車は、老朽化などの理由により終焉の時を迎えました。技術の進歩によって、検測機器の小型化・精密化が進んだことや、種車の製造からすでに46年が経っていたこと、そして走行装置、特に電装品も旧式化したことなどから、ついに置き換えられることになったのです。
後継となる7500系が新製されると、営業用車として多くの人を運び、こどもの国線という私鉄路線では特殊な路線で子どもたちを乗せ、そして事業用車として東急線を縁の下で支え続けてきた7200系アルミ車は、46年という長きにわたる活躍を終えたのです。
その後は廃車とはならず、いわば保留車として保管された後に、デヤ7200形は2013年に廃車の手続きがとられて除籍となり、その年の3月に東急グループがスポンサーとなっているJリーグ・川崎フロンターレのイベントで等々力陸上競技場前で展示され、その後解体処分されて姿を消していきました。
相方のデヤ7290形は、解体の運命をたどり長年一緒に過ごしてきた長津田の地をあとにしていったデヤ7200形を見送ったあとも、そのまま保管されていました。そして、2014年に長津田工場のイベントで展示されて最後の花道を飾った後に廃車となり、44年の歴史の幕をおろしました。
そして、最後に製造されたサヤ7590形は、パートナーを新たにやってきた7500系と組んで、今日も軌道検測車として東急線の軌道状態を検査する役割を担い続けています。営業用車ではなく、そして基本設計もオリジナルとは大きく異なるものの、唯一残った7200系として走り続けています。
7200系の最大の特徴は、やはりこの前面の折り具合だろう。多面的に折り曲げられたデザインは、後にも先にもこの7200系だけだと考えられる。しかし、このデザインはステンレス鋼が曲げにくいという特性をもっているためによる「苦肉の策」だったともいえる。この後、東急の車両は特に大きな加工をする必要がない切妻のみとなり、「切妻以外考えるな」という同社の役員の言葉にもあるように、製造コストを極力抑える姿勢が車両にも現れたといえる。現代の鉄道車両も多くステンレス鋼を車体に使っているが、前面は強化した構体にFRPや普通鋼を使った前面を取り付ける方法で、様々なデザインを実現させている。(1800系1807F ク2807 新豊橋駅 2012年5月13日 筆者撮影)
さらに、地方私鉄に渡った車両たちは、多くがオリジナルに近い状態で今も運用に就いています。1M方式で使い勝手がよいこと、オールステンレス車であるため雨水などによる腐食の心配もなく、塗装をする必要がないことから重宝がられ、すでに半世紀以上が経っているにもかかわらず、置き換えられる気配がありません。ダイヤモンドカットと呼ばれる独特の前面形状は今しばらく見ることができると考えられます。まさに、昔日の映画のタイトル「ダイヤモンドは永遠に」ではありませんが、「ダイヤモンド・カットは永遠に」といっても過言ではない、7200系はまさに「傑作車」といえるでしょう。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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