《前回からのつづき》
協調運転も含めて、EF63形には数々のジャンパ連結器が設置されていました。これは、碓氷峠区間を通過するすべての車両に対応できるようにしたためで、1エンド側・軽井沢方の前面スカート部には、EF62形と連結するためのKE63形を始め、協調運転用のKE70形、115系やキハ57系、キハ82系とも連結できるジャンパ連結器が設けられていました。このジャンパ連結器を介して、特に下り列車では先頭の電車や気動車からATS信号も送られ、それらはEF63形の運転台で確認することができました。
EF63形は、本務機のEF62形が軸配置C-Cの3軸台車を装着していたのに対し、EF60形などと同じ2軸ボギー台車を装着していました。これは、EF62形は信越本線の線路規格に合わせて軸重を抑える必要があり、台車を軽量化した結果として3軸台車を採用しましたが、EF63形は碓氷峠区間が線路改良によって1級線の規格となったため、軸重の制限も大幅に緩和されました。また、軽量化や軸重を軽減するよりも、登坂時に生じる軸重偏移による粘着不良などを防ぐため、台車ごとにかかる軸重も変える必要がありました。
こうしたことから、EF63形は車両両端にはDT125形、中間にはDT126形を装着するとともに、軽井沢方から19トン、18トン、17トンとそれぞれかかる軸重も変え、軽井沢方にはデッドウェイトも搭載してこのような軸重構成にしたのでした。そして、このようなデッドウェイトの搭載と軸重調整、協調運転に必要な機器などを装備した結果、EF63形の運転整備重量は108トンにもなり、国鉄形電機で最大の重量を誇る重量機となったのでした。もっとも、このような重量と軸重の機関車は、他の路線で運用が不可能でしたが、碓氷峠区間専用と割り切ることで、このような設計を可能にしたといえます。



EF63形が装着した台車3態(再掲)。国鉄電機としては最大の重量を支える台車で、軸重配分は横川方がもっとも重くなっていた。電磁吸着ブレーキや、過速度検知装置など特殊な機器を装備していたため、外観もほかの電機に装着されたものとは異なっている。言い換えれば、EF63形専用の台車であった。(EF63 1 碓氷峠鉄道文化むら 2025年5月4日 筆者撮影)
1962年から製造が始められたEF63形は、翌1963年に粘着運転がはじめられると、計画通りに横川駅−軽井沢駅間の補機運用に就き、多くの列車とともに急勾配を登り下りする運用をこなしていきました。
1963年までに量産車12両が製造され、試作車1号機とともに高崎第二機関区に配置されて、それまで碓氷峠区間の主でもあったED42形28両すべてを置き換えました。従来28両必要だったのが、粘着運転に移行したことで14両で運用が賄えるようになったのは、やはり所要時間が短縮された効果が現れたと考えられるでしょう。
1964年に横川駅付近に横川機関区が開設されると、EF63形は全機が配置転換となり、麓の横川を寝蔵に碓氷峠を登り下りする列車のシェルパとして活躍しました。その後、さらなる輸送力の強化のために、1966年に4両が、1967年に2両、1969年に2両がそれぞれ増備されて横川機関区に配置され、EF63形はこの時点で総勢21両までになりました。
1974年になると、さらに2両が追加で新製されて横川区に配置になり、総勢で23両にまで成長しましたが、翌1975年10月に上り単機回送列車としてEF62形2両とともに4重連で運転されていた5号機と9号機が、何らかの原因により規定速度を大幅に超えて降坂し、急勾配でブレーキが効かずに脱線転覆する事故を起こしました。この事故で、車両は大破してしまったため、EF62形12号機と35号機とともに現地で解体される運命となり、製造から11年ほどで廃車となりました。

旧横川運転所(国鉄時代は横川機関区)の跡地に解説された鉄道保存展示施設である碓氷峠鉄道文化むらに静態保存されている、EF63形の栄えある1号機。現役時代は青15号にクリーム4号の直流電機標準色に塗られていたが、登場時は旧型電機と同様にぶどう色2号1色という装いだった。定期的に塗装を塗り替える補修も施されているため、比較的良い状態が保たれている。1963年に落成してからすでに60年以上が経っているが、現役時代の勇姿を今に伝えている。(EF63 1〔横〕 碓氷峠鉄道文化むら 筆者撮影)
その代替として、当初の計画にはなかった24・25号機の2両が、1976年に増備されました。碓氷峠区間の輸送力を確保するためには、23機体制を欠かすことができなかったためと考えられますが、1986年までこの勢力を保ち続けました。
《次回へつづく》
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