旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

旅人もマイカーも乗せて 夢のような夜行列車だったカートレイン【2】

広告

《前回からのつづき》

 

blog.railroad-traveler.info

 

 自動車を鉄道で運ぶ。

 この発想は取り立てて新しいものではありませんでした。ヨーロッパではイギリス国鉄が、ロンドン―パース間で「カースリーパー」という愛称のカートレインを、1955年から運行していました。また、アメリカでも同様の列車が1971年から運行されていて、1983年からはアムトラック全米鉄道旅客公社)によって運行が続けられています。

 日本でも、自動車を鉄道で輸送することはしていました。といっても、自動車製造工場から出荷された新車を車運車に乗せ、輸出の拠点となる港に近い駅に輸送していましたが、こちらは貨物としての扱いでした。

 こうした欧米での実例や、既に国鉄も貨物ではあるものの、自動車を鉄道で輸送する実績はもっていたことを考えると、目新しいものとはいえません。しかし、欧米のように鉄道を利用する乗客が所有する自家用車を、鉄道で一緒に運ぶというのはそれまでになかったことだったのです。

 莫大な債務に苦しむ国鉄は、政治的にも社会的にも大きな問題で、その再建が議論されていた1985年、様々なアイディアサービスを世に送り出し増収への努力をする中で、長距離を旅行する乗客と、自らが所有する自家用車を目的地まで一緒に運び、旅先の移動は乗り慣れた自らの自動車で移動できるという、それまでになかった旅の新しいスタイルを提案すべく、汐留―東小倉間で「カートレイン」の愛称を付けた列車の運行を始めました。

 このカートレインの設定は、国鉄が目論んだ通りそれまでになかった新たな発想の列車だったので、瞬く間に人気のサービスになっていきます。

 日本初のカートレインは、1985年7月に汐留駅東小倉駅間で運行が始められました。発駅と着駅にあるように、どちらも多くの列車が発着する旅客駅ではなく、一般には聞き慣れない名前の貨物駅でした。これは、カートレインを利用する乗客は駅に自家用車を持ち込んで列車への積み下ろしが必要です、旅客駅のホームに自動車は乗り入れることはできませんし、そのような場所を新たに設ける敷地の余裕もなく、あってもわざわざ施設を整えるために資金を投じる余裕もありません。

 国鉄はカートレインの運行を始めるにあたって、可能な限り手持ちの資産を活用することで、新たな設備投資を抑える必要がありました。そこで、利用客が自動車を持ち込むことができる貨物駅を発着することにしたのです。

 発着する駅の設定も、カートレインらしいといえました。下り列車の発駅は、東京の都心部の中にある汐留駅で、多くの長距離列車が発着する東京駅にほど近いところです。当時の汐留駅は、既にヤード継走方式による車扱貨物輸送が原則として廃止になっていたため、貨物、荷物ともに列車の発着本数は大幅に減っていました。

 もう一方の発着駅である東小倉駅も、鹿児島本線上にある貨物駅です。こちらも汐留駅と同じく、貨物列車の発着本数は大幅に減っていたことや、北九州市の市街地に近い位置にあること、九州の玄関口となる門司に近いことなどから、カートレインの発着駅として選ばれたと考えられます。

 

日本で初めて、乗客と自家用車を運ぶという型破りなサービスとなったカートレインは、汐留駅ー東小倉間で運転が始められた。東京側の汐留駅は首都圏の貨物輸送の拠点駅の一つで、都心に最も近い位置にあった。九州側は東小倉駅発着に設定され、九州の玄関口となる門司駅小倉駅の間にあった。しかし、分割民営化後はJR九州の管轄になるが、その入口になる下関駅東小倉駅の間は距離が短く、列車の走行距離に応じて配分される運賃収入が本州三社と比べて極端に少なかった。加えて下り列車の終着駅でもあるので、折り返し上り列車として発車させる前に、車両の検査はもちろん、寝台車の車内整備やリネン類の洗濯、昼間に留置する場所への回送や入換など、人とコストがかかる業務を担わなければならなかった。そのため民営化後は、カートレインへの興味も急速に失われ、短命で終わってしまった一因にもなった。(©PekePON, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 こうして、既存の施設を活用することで、新たな投資を最小限に抑えながらも新たな列車の運行を実現さえましたが、そのことは車両の面でも同じでした。

 乗客の自家用車を列車で運ぶという規格は、どのような方法で運ぶかという課題がありました。新たに専用の車両をつくってしまっては、新たな投資が必要になってしまいます。

 国鉄では既に貨物として自動車を運ぶ車運車という貨車があったので、まず最初に俎上に上がったのは言うまでもないでしょう。ク5000形という二段積みで、最大で8台の自動車を運ぶことができる車両でしたが、これを使うことは早々に却下になってしまいます。

 その理由として、ク5000形は無蓋の貨車であることでした。いや、そもそも自動車なんて雨ざらしの環境で保管されることも多いので、そんな事を気にする必要もないのではないかという考えもあるかと思いますが、国鉄としてはこの方法を使うことである問題が起こるのを避けたかったのです。

 鉄道車両はブレーキをかける時に、多くは車輪を制輪子で挟み込む踏面ブレーキを使っていました。踏面ブレーキは、制輪子で車輪を挟んでそこで発生する摩擦で運動エネルギーを減らすのですが、この時に制輪子からは鉄粉が飛び散ってしまいます。制輪子は鋳鉄、すなわち鋳物が使われるか、あるいは合成樹脂を混ぜたレジンを使います。いずれもブレーキが作動する時には鉄粉が飛び散ることは避けられず、乗客から預かった自動車にこの鉄粉がつくことを避けたかったのです。

 いやいや、この鉄粉は後で取り払えばいいのではと思うかもしれません。しかし、鉄粉が一度自動車のボディーにつくと、どういうわけかこびりついてしまう性質があります。筆者も鉄道マン時代に自家用車で出勤したり、一時は新鶴見機関区の構内にあった貸駐車場を利用していたりしましたが、この鉄粉は非常に細かくて毎日洗車でもしていれば別ですが、そういうわけにはいかないので結局のところつくことは避けられません。また、鉄粉は非常に細かい粒子であることと、そもそも強度を持たせるためにわざと錆ていることもあって、車のボディーと非常に相性がよいためか、ちょっと払った程度では取り切ることが難しいのでした。

 ほぼ一晩かけて走るカートレインですが、当然、減速したり停車したりします。そのたびにブレーキをかけるのですが、そこから飛び散る鉄粉が乗客から預かった自動車に付いてしまい、「車を錆びさせた、弁償してくれ」なんて話になれば、せっかくの新しいサービスも台無しになり、それどころか多額の賠償が生じる危険も考えられたのでした。

 こうした理由などから、ク5000形をカートレインに使う方法は早い段階で消えていったのでした。

 そうなると、屋根のある車両ということになりますが、この時点で使える車両の選択肢は絞られます。無蓋車ではなく有蓋車になるのは当然のことですが、それではどの形式を使うかということです。

 当時、国鉄保有していた有蓋車の多くは、既に用途を失って余剰化したものが数多くありました。17トン積のワラ1形や、15トン積パレット輸送対応のワム8000形、これを大型化したワキ5000形など選り取り見取りの状態でした。後は、自動車を難なく貨物室内に積み下ろしができる構造であるかということでした。

 ワラ1形は車両自体のサイズはちょうどいいと思われますが、積み下ろし用の扉は中央部に両開の開き戸があるだけで、自動車を積み下ろしするのには不適でした。ワム80000形も側扉は総開き戸でしたが、その開口部の大きさは自動車よりも小さくいために不適格。最後は大型有蓋車となるワキ5000形や、それと同じサイズの車両ということに絞られていきます。

 

《次回へつづく》

 

あわせてお読みいただきたい

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info