《前回からのつづき》
北海道内を旅行する人々に、長距離は鉄道を使ってもらい、現地では自動車を使って観光地を訪れてもらおうと、1997年を最後に運行を終えたカートレイン北海道の車両と施設を活用する形で、白石駅ー新富士駅・釧路駅間を結ぶカートレイン釧路の運行を始めました。
自動車を積むのは大型有蓋車であるワキ10000形、乗客を輸送するために用意したのは14系座席車でした。しかし、カートレインは乗客が所有する自家用車を載せてこそ、その利便性を発揮する列車です。前述のような本州各地からの旅行客は自家用車を持ち込むことはなく、レンタカーを借りた人々や札幌都市近郊に住む人たちに限られました。
そのため、カートレイン釧路は翌1998年で早くも運行を休止となってしまいます。
このような不振であったにもかかわらず、1999年には再び新たなカートレインを設定します。本州の北端にあたる東青森駅ー白石駅間にカートレインさっぽろを運行しましたが、そもそも青森・札幌間の運行では道東を移動するだけであり、その需要は限られたものになると考えられます。青森から道内に自動車が入る移動手段としては、既に津軽海峡フェリーで函館や釧路に行くことができるので、積むことができる自動車のサイズに制限があり、ワキ10000形への積み下ろしに手間がかかり、1日1本しか運行されないカートレインは、フェリーと比べて利便製が著しく劣るといえるでしょう。
結局、カートレインさっぽろは1999年の運行で終わりました。そして、国鉄が旧来の伝統に囚われない斬新な発想で、新たな需要を掘り起こそうと始めたカートレインは、この年をもってすべてが運行を終え、14年間の歴史に終止符を打ったのでした。

カートレインがデビューした当時、乗客とマイカーを同時に運べるという、従来の国鉄にはなかった新しい発想の列車として、ニュースなどで華々しく取り上げられ多くの人に知られることになった。発駅で愛車を預けて列車に乗せ、自らは同じ列車の寝台車に乗って夜の間に移動し、目的地では乗り慣れた車で移動し各地を訪れて楽しむという、新しい旅のスタイルを提示したといえる。その一方で、この新たなスタイルの列車を運行するために、新たな車両を製作する体力はなかったため、余剰となっていた車両を呼び戻し、必要な改造を施してこれに充てた。可能な限りコストを切り詰めながら、新しい列車の運行につないだことは、これにかかわった人々の努力の賜物だった。しかし、このことが後にあだとなってしまい、自動車の車体サイズが大型化していったことで、貨車などに乗せることができる車種が減ってしまい、カートレインの運行休止(事実上の廃止)に追い込んでいってしまったともいえる。(©Olegushka, CC0, via Wikimedia Commons)
国鉄の分割民営化がほぼ決まりつつあった1985年、もはや天文学的数字とも言われた莫大な債務を抱え、民間企業なら既に倒産していてもおかしくない状態の中、少しでもイメージの回復と利用者を呼び戻そうと、伝統に囚われずに新たな発想で走らせたカートレイン。
それは、鉄道の新たな輸送形態を示した列車だったといえるでしょう。しかし、自動車もまた発展し続けていて、1980年代終わり頃からは、従来の小型車、いわゆる5ナンバーサイズを超える車が世に出てきていました。加えて1990年代に入ると、セダンタイプの乗用車から、RVブームの到来によってその形態は多様化していきました。
こうした時代の変化に対応した車両を開発し、この新たな発想で生まれた列車に投じていれば、もしかするとカートレインはもっと成長していたかも知れません。しかしながら、当時の国鉄にはそうした財政的な余裕はなく、建築限界など物理的な制約も多く、手持ちの余剰車両を活用する以外に手はなかったと考えると、致し方のないことだったといえるでしょう。
とはいえ、伝統を打破し、それまで考えられたことのなかった、乗客とその自家用車を運び、翌日、目が覚めたら訪れた地で乗り慣れたマイカーで、観光地などをめぐってもらうという発想は、ともすると21世紀も四半世紀が過ぎようとする現代にも通用する列車だったかもしれません。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
あわせてお読みいただきたい