《前回からのつづき》
広島工場でクモハ123形の2〜4号車が改造が進められていたのと時を同じくして、もう2両のクモニ143形が吹田工場で旅客車化の改造が進められていました。この2両は落成後に5・6号車となりますが、1〜4号車が種車の構造をすべて改めて旅客車らしく仕上げられたのに対して、こちらは種車の構造にできるだけ手を加えない方針で進められました。
そもそもクモニ143形は形式名が示すとおり、荷物電車としてつくられました。そのため、側面の扉は通常の旅客車のように車両の両端や、一定の間隔を置いた規則的な位置ではなく、荷物を積み下ろししやすく、車内での荷扱作業に適した位置に設置されていました。

かつては、中・長距離列車には写真のように荷物車あるいは郵便荷物車が連結されることがあった。しかし、手小荷物の輸送量が減少したことと、宅配便の台頭、そしてトラックへの転移によって国鉄の手小荷物輸送は原則廃止となり、製造からそれほど時間が経っていないクモニ143形などは、余剰車となってしまった。クモハ123-5・6の種車となったのは、143系の中でも荷物車としてくられたクモニ143形だった。荷物車であるため車体の構造は特殊で、荷物積卸用の引き戸は旅客車とはまったく異なる位置に設置されていた。加えて構造も戸袋のない手動引き戸であるなど、多くの点で異なっていた。この特殊な構造の荷物車を旅客車にするだけでも工期とコスト、そして労力がかかることから、可能な限り種車の構造を活用する方向で改造されたのがクモハ1223-5・6だった。(出典:写真AC)
前位側の扉は車端部から4169mm、後位側はそこから4120mmの位置に、幅1800mmの両開きの引き戸が設けられていました。このような変則的な位置になったのは、後位側には荷扱専務車掌や荷扱手などが乗務したり休憩したりするための乗務員室が設置されていたためでした。
この乗務員室には携行する鞄などの収納するためのロッカーや、事務作業をするための椅子と机、休憩用の座席、そして洗面台が備えられていたため、運転士が乗り込むための乗務員室仕切り壁から2920mmのスペースが確保されていました。また、荷物室に張り出すように便所と貴重品室も備えられていたため、後位側車端部から5439mmの位置まで乗務員室があるという車内の割り付けになっていました。
このような構造だったため、外観からは中途半端な位置に荷扱用の扉が設置されているように見えましたが、車内の割り付けからみれば均等になった、積み下ろし時に効率的に作業ができるように配慮された、合理的な設計だったのです。
5・6号車は、この荷物電車の独特な扉位置の構造をそのまま活用することで、工数の削減と改造にかかる費用を削減しようと考えられたのです。
乗降用扉の位置は、荷扱用扉の位置をそのまま活用しましたが、扉そのものは旅客用としては不適切でした。荷扱用扉は前述の通り開口部が1800mmと広く取られ、その開閉は手動によるものでした。荷物が扉に当たったときに簡単に破損しないように頑丈なものとされ、窓ガラスには金属製の保護棒も取り付けられていました。加えて、荷扱用の扉は、車体側面の外板から少しだけ奥まった位置にありましたが、これは一般の旅客用扉が外板と内板の間に入れ込む戸袋があったのに対し、荷物車は構造そのものを簡単にするため戸袋はなく、内板よりも室内にドアレールを設けて扉が車内側に設置されていたことによるものでした。
旅客車への改造に際しては、この扉を撤去して開口部を1300mmと狭くし、戸袋に収納する両開き引き戸に変えました。この扉のサイズは国鉄の通勤・近郊形電車に使われていた標準的なもので、これを踏襲したものでした。そして、扉は手動ではなくドアエンジンを設置した自動扉となりました。
車内は旅客車としては必要のない、荷扱専務車掌と荷扱手が乗務していた乗務員室をはじめ、洗面台や便所、貴重品室はすべて撤去しました。加えて荷物室の床面は金属製の簀の子状のものから、床板を貼り床材を敷いたフラットな形状へと変化しました。
荷物車としての設備を撤去したことで、車内は広くなりましたが、座席は乗降用扉の部分以外はロングシートを設置しました。これにより、着席定員こそ減るものの、車両全体の収容定員は増えるため、ラッシュ時などでは多くの利用客を乗せることを可能としました。
その一方で、側面の窓は大きく変化しました。。
クモニ143形時代の窓は、扉と同様に車内での荷捌き作業の時に、誤って荷物が窓に当たったときに破損しないように、鉄製の保護棒が取り付けられていましたが、旅客車への改造時にこれをすべて撤去しました。そして、窓そのものが幅674mmと小さいためそのまま使うことはせず、103系など通勤形電車とほぼ同じサイズのユニット窓を設置、戸袋窓は省略したものとなりました。
クモハ123形の5・6号車も、2〜4号車と同じく改造時から冷房装置が搭載されました。AU75形集中式冷房装置を屋根上に搭載することで、接客サービスの向上を図りました。
加えて前面は2〜4号車とは異なり、改造時に貫通扉を設置しました。そして、車体は103系に合わせて青22号で塗装されていましたが、前面の窓廻りから上部は黒色で塗ることにより、視覚的に窓を大きく見せるようにしたのでした。

クモニ143形を種車に改造によって製作されたクモハ123-5・6は、阪和線羽衣支線用として運用された。しかし、ここでの運用は短く、その後は岡山電車区へ転じて宇野線、そして福塩線で使われたもののやはりここでも短い間で転用となった。そして広島へ転じて可部線での運用が始められると、特徴的だった青22号にカモメが描かれた装いから、クモハ123-2~4と同じ塗装へとなった。改造時から前面には貫通扉が設けられていたため、増結用としても重宝されたものの、ここでも冷遇されたかのようにわずか3編程度で再び転出、ようやく安住の地となる小野田線と宇部線での運用に就いた。(出典:写真AC)
この貫通扉の追設は、2両編成を組んだときに人の往来を可能にするためでしたが、後にこの貫通扉が非常に役に立つことになります。
クモハ123-5・6は、1987年3月31日に吹田工場で落成しました。この日は国鉄最後の日で、翌日からは分割民営化によって設立される旅客会社6社と貨物会社がその事業を継承することになっていたことから、この2両は吹田工場が国鉄時代に最後に改造した車両となりました。そして、この日付で日根野電車区に配置となったことで、たった1日だけですが国鉄に車籍をもった車両となったのです。
翌4月1日からは、日根野電車区はJR西日本が継承したことで、5・6号車もJR西日本に継承されました。しかし、日根野区に配置になったものの、すぐには運用に就くことはなく、長期にわたって留置された状態が続きます。国鉄時代に余剰になったクモニ143形を活用しと、旅客車へ転用改造はしたものの、改造後も余剰車同然の扱いを受けたといっても過言ではない状態になったのです。
このような落成当初からの不遇は、後々にも響くことになりました。
《次回へつづく》
あわせてお読みいただきたい