1:なぜ伊豆の鉄道は“悲願”だったのか──地形・交通・歴史から読む伊豆半島の物語
《前回からのつづき》
伊豆は箱根に並んで首都圏の保養地として、昔から多くの人が訪れるところです。一言で「伊豆」と言っても、意外に広く温泉地もあちこちにあります。伊豆半島に点在する保養地は、付け根にある熱海をはじめとし、東海岸には伊東や熱川、西海岸には修善寺や土肥など数多くあるのですが、厄介なのは伊豆半島自体が大きな山の塊であるため、東西の往来は山越えをしなければなりません。南北に約60km、東西では約40km、海岸線の距離は318kmにも及び、最高峰である万三郎岳の1406mをはじめとする700m~1000m級の山々が半島の中央に連なっています。そのため、東海岸と西海岸を往来するためには、この山を越えるか海岸線沿いを遠回りするのを覚悟で行かなければなりません。
しかも海岸線近くまで山が迫っている地形は、鉄道や道路といった交通機関を整備するには、海岸線に沿ったごくわずかな平地を縫うように作るしかなく、交通の便はお世辞でもよいとはいえない環境にあります。
関東屈指の温泉地でありながら、陸上交通の便の悪さから観光客を呼び込むことが難しく、しかもここで暮らす人々にとっても交通網の整備は悲願と言えるもので、特に下田をはじめとする南伊豆の住民にとっては、生活に直結する大きな課題だったといえるでしょう。
伊豆の玄関口にあたる熱海であれば、東京から列車で1時間から2時間、マイカーだと伊東まで2時間ほど行くことができます。しかし、伊豆半島の先端にある下田まで行くとなると話は別で、車なら3時間はかかってしまいます。しかも、高速道路のような高規格道路の整備は未だ途上にあるため、ここへ向かうには熱海から国道135号線を東海岸沿いに走るか、沼津から国道136号線で中伊豆に向かい、途中から国道414号線で天城越えをして行くルートと、一度箱根の山に登り箱根峠から伊豆スカイラインに入り、伊豆半島の山々の尾根を走るしかなく、いずれも3時間から3時間半はかかってしまいます。
このような道路事情の悪さから、伊豆の人々にとって鉄道の開通はまさしく「悲願」といえたのです。
その鉄道は、東京から徐々に西へ延伸してきたものの、途中の国府津から北上して御殿場を回り、あろうことか沼津に至るルートが東海道本線として開業しました。これは、相模湾沿いをそのまま西に進むと熱海と沼津の間に丹那山が立ちはだかるため、これを越えるためには碓氷峠をも上回る急勾配で山に登るか、長大なトンネルを掘って突き抜ける他なく、当時の技術ではいずれも不可能とされたからです。そのため、箱根山の北麓を回り込むようにして抜ける御殿場を通るルートが選ばれ、東海道本線は箱根の玄関口となる小田原や、伊豆の入口となる熱海を通らなかったのです。
沼津も伊豆の玄関口といえなくもありませんが、熱海と比べると天城越えが控えていることと、わざわざ御殿場を経由する遠回りとなるため、最短かつ最速で行くことができるルートとはいえませんでした。
このルートになったことで、小田原や箱根の人たちは非常に残念がったと言われています。鉄道が来なかったことにより、一時的にせよ町も衰退の兆しを見せ、訪れる人の姿も減ることになりました。

鉄道開業、それから西へと延伸していった東海道本線は、国府津から箱根山の北麓を迂回し、御殿場を通るルートが採られた。これは、熱海ー三島間に箱根山が立ちはだかり、ここを通るには長大なトンネルを掘削することが避けられなかった。しかし、当時の技術ではこれをすることが非常に難しかったことから、止むなく御殿場を通過するルートになった。そのことは、小田原や熱海といった有数の保養地を衰退させることにつながり、これらの地域では鉄道の開通が悲願であった。他方、箱根山を迂回し御殿場を通るルートになっても、25パーミルの勾配が連続する線形だったため、蒸機が牽く列車は補機の連結を必用とするだけでなく、列車重量にも制限が加わり、特に長距離特急列車の速達性を低下させていたことから、鉄道省やその前身となる帝国鉄道院にとっても、熱海ー三島間を直接つなぐルートは喫緊の課題でもあった。(出典:写真AC)
しかし、御殿場周りのルートは箱根山を迂回しても勾配が厳しく、補助機関車を連結しても列車重量に制限がつきまとい、速度も出せないなど足かせがついて回ったため、やはり海岸沿いのルートが本命とされたのでした。
1920年に東海道本線の「本命」ともいえる海岸沿いルートの一部となる、国府津―熱海間が開通します。開通当時は熱海線と呼ばれ、これによって伊豆東海岸の玄関口となる熱海まで鉄道が開業、関東有数の保養地でもある熱海へ列車を使って訪れることが可能になりました。
その熱海線が開通してから8年後の1928年、鉄道省は東京―熱海間に休日のみに運転される準急列車が1往復設定されました。この当時の準急は、戦後のものとは異なり料金不要で乗ることができる速達列車で、今でいうところの快速列車に相当しました。乗車券以外の料金が不要で、しかも速達性も高く所要時間も短かったことは、人気の列車となったことは間違いなく、翌1929年には土日運転の列車となりさらに1往復が増発されました。
そして、増発から1年後の1930年になると、鉄道省は思い切った施策を実行しました。土日運転の準急列車に加えて平日にも列車を設定し、平日は毎日1往復が、土日には既に運転されていた列車を加えて2往復となり、しかも東京―小田原間は1時間20分、東京―熱海間は1時間45分で結ぶという所要時間の短さは、当時の特急列車に匹敵するほどの高速で運転されたことで、さらに多くの需要を取り込みました。
《次回へつづく》
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