《前回からのつづき》
1987年に広島区配置のまま国鉄分割民営化を迎え、EF61形200番台はEF67形とともに、203号機を除いた7両がJR貨物に継承されました。動態保存を目的としたEF60形19号機を除いて、初期の60番台F級機として唯一、新会社に継承されたのでした。
しかも皮肉なことに、EF60形として誕生した時にはクイル式駆動を採用したことで、その構造に由来する故障を頻発させ、以後の量産車は吊り掛け駆動に変更されたことで運用も切り離され、その煩雑さなどから持て余した結果、瀬野八用補機となって形式もEF61形200番台に変えられたのが、第2次車以降の量産車はすべて国鉄分割民営化までに廃車されていったのに対し、新会社に継承されてその後も生きながらえたのでした。

クイル式駆動という新機軸を盛り込み、国鉄が大いに期待したEF60形だったが、その構造に由来する歯車部への砂埃の侵入は、異常振動を引き起こすという不具合を抱えることになった。その結果、リンク式に改造することを余儀なくされたばかりか、運用も2次量産車以降と分けられるなど、かえって煩雑なものにしてしまった。甲府機関区に転属させて中央東線で運用されたが、連続勾配を降坂するときにブレーキを多用したことで動輪のタイヤ部を弛緩させる不具合を頻発、発電ブレーキを装備したEF64形に追われ、稲沢第二、そして岡山と転々とすることになる。そして、瀬野八用の新型補機を製作するための種車に選ばれ、EF61形200番台に改造された。このような不遇な歴史をもつものの、1987年の国鉄分割民営化ではJR貨物に203号機を除く7両が継承され、1990年に廃車・除籍されるまで瀬野八を越える列車の背中を押し続け、かつての僚機が廃車となって姿を消した後も運用が続く幸運を手に入れた。試作車と1次量産車の外観上の特徴である前部標識灯のケーシングが樽形になっている。(©Gohachiyasu1214, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
しかし、1990年代に入る頃になると、種車のEF60形として新製されてから30年近くが経ち、補機として過酷な運用をこなしていたためEF61形200番台の老朽化が進んでいました。また、バブル経済によって貨物輸送量は増加したものの、列車の増発は簡単ではないため、連結両数を多くすることで対応していたこともあって、1,000トン以下の列車に限定されていたEF61形200番台では運用ができないなどの問題もあったのでした。
1990年になると、JR貨物はEF65形0番台を種車に、EF67形100番台を改造製作しました。単機で1,200トン列車の補機運用に入ることができる性能をもったことで、EF61形200番台の置き換えが始められ、1991年に最後まで残った206号機と211号機が廃車となったことですべて姿を消し、31年に渡る歴史に幕を下ろし、EF61形は形式消滅したのでした。
ところで、貨物用機であるEF60形を種車として改造されたのに、旅客用機のEF61形に形式変更されたことに疑問を抱く方もおられるでしょう。EF60形を改造したのであれば、よほどの改造を受けたのでない限り、区分設定をするのが一般的です。
あくまでも推測ですが、EF60形第1次車とEF61形は暖房用の蒸気発生装置の有無が大きな違いで、駆動方式や主電動機、機関車出力、そして歯車比はEF60形が1:5.466、EF61形が1:5.13と近く、定格速度も前者が全界磁で44.7km/h、後者は47km/hと大きな差はありませんでした。そのため、補機として旅客列車にも使われること、そしてEF61形0番台も改造する計画があったことから、EF60形の区分変更ではなく、EF61形に編入して200番台に区分設定されたと考えられます。
いずれにしても、禁忌とされた運用もあり、けして使い勝手が良いものではなかったEF61形200番台ですが、昭和から平成にかけて日本の大動脈の一つである山陽本線で、人の動きや物流を支えるという重要な役割を担った功績は大きいものがあるといえます。
《次回へつづく》
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