《前回からのつづき》
EF61形200番台のもう一つの外観上の変化として、1エンド側、すなわち東京方の連結器は、EF59形と同様に走行中に解放できるように、自動解錠装置となる解放てこを作動させるための空気シリンダーも設置されたことです。そして、10000系高速貨車と連結するため、ブレーキ管と元空気だめ引き通し管の接続部をもった、空気管付密着自動連結器に交換されるとともに、重連運用を想定したため重連総括制御装置の追加と、これのためのジャンパ連結器も設置されました。
その一方で、歯車などの駆動装置には大きく手を加えられませんでした。EF60形試作車と第1次車は、もともとはクイル式駆動を採用していたため、歯車比は僅かに高速寄りの1:5.466に設定されていましたが、200番台の改造に際してこれには手を付けなかったのです。そのため、定格速度も44.7km/hと第2次車以降と比べて僅かに速めで、引張力も19,200kgと種車のまま引き継がれていました。これは、EF59形の歯車比が1:3.67、定格速度が51km/hと比べると若干速度性能は落ちますが、EF59形が搭載する主電動機のMT17形の出力が225kW、機関車出力は1,350kWであるのに対し、EF61形200番台は出力390kWのMT49形を搭載し、機関車出力は2,340kWと主電動機のパワーで補えることから、瀬野八での運用でもないと判断されたといえるでしょう。しかし、この主電動機のパワーに依存したことが、EF61形200番台の運命を左右することになってしまったのでした。

EF61形200番台は、本来であれば重連で1200トン列車の後押しをすることを企図されたため、改造に際しては前面に貫通扉を設けて乗務する機関士の車両間移動の便を図っていた。しかし実際に運用を始めて見ると、EF59形と比べて強力なパワーと、種車由来のトルク力の大きさが仇になり、押上力が過大になる座屈を起こす可能性が高区なることが分かった。そのため、EF61形200番台は単機運用が原則となり、最大でも1000トン列車に限定されることになってしまった。前面の貫通扉設置によって種車の面影も大きく変わってしまったが、貫通扉が垂直であるのに対して前面窓は後方に傾斜し、扉部分に僅かな段差が見て取れる。これこそが、種車が非貫通構造の前面であった証でもあった。また、前部標識灯のケーシングは2次量産車以降を形が異なり樽形になっているのが分かる。(©spaceaero2, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
このような内容の改造を施したEF61形200番台は、全部で14両が改造によって製作されることが計画されていました。この数は、種車となるEF60形の内、クイル式駆動を装備した車両と同じ数で、改造対象は1〜14号機が選ばれました。そして、改造は1号機から順番に施工するのではなく、運用から取り出された順番で実施しました。
1977年に改造によって製作されたEF61形200番台は、落成するとEF59形と同じ背の機関区に配置されました。そして、さっそく瀬野八での運用に充てられ、ここを通過する列車の後押しをしました。
瀬野八では、列車重量が比較的軽い旅客列車と、1,000トン以下の貨物列車は単機で後補機に就きました。しかし、1,000トンを超える列車は重連での後補機運用が原則となっていました。
EF61形200番台もEF59形と同じ原則を適用して運用されました。単機での後補機運用では特に問題を起こすことはありませんでしたが、重連での運用でその欠陥が露呈してしまったのです。
瀬野八では上り列車の最後尾に補機を連結する「後補機」として運用されていました。この方法では、本務機と補機の間に客車や貨車が連結されているため、総括制御をすることができませんでした。そのため、本務機に乗務する機関士とは別に、補機にも機関士が乗務していました。そして、ブレーキ管で接続されているので、ブレーキ操作は本務機の機関士が操作していましたが、加速するときのマスコン操作は本務機の機関士から乗務員無線を通して補機の機関士に伝えられ、その指示に応じた運転操作をしていたのです。

EF61形200番台 主要諸元(生成AIを使用、筆者まとめ)
こうした運転方法は瀬野八に限ったことではなく、補機の連結を必要とした急勾配区間で、列車の最後尾に連結した場合に運用される方法でした。唯一の例外は碓氷峠で、補機であるEF63形と協調運転が可能な169系や189系、489系に補機としてEF63形を連結したときに、電車の運転士はすべての運転操作を禁じられ、電車も含めた運転操作はEF63形に乗務する機関士が担っていたのでした。
《次回へつづく》
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