旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

峠に挑んだ電機たち 第3章 今も残る補機運用 川の水を分かつ安芸国の隘路・瀬野八【11】

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《前回からのつづき》

 

 EF67形には瀬野八で運用するために欠かせない装備も追加されました。1エンド側の連結器は空気管付密着自動連結器に交換され、走行中に連結器を解放するための自動解錠シリンダーも装備しました。そして、重量列車を押し上げるときに連結にかかる衝撃力を緩和するため、大型の緩衝器も装備したことから、1エンド側はその分だけ伸び、車両全長も種車の16,500mmから550mm延長され、17,050mmとなりました。加えて、この1エンド側の連結器部分には、EF61形200番台と同様にデッキが設置されていました。このデッキはEF61形200番台と同じ理由によるものと考えられ、回送列車として運行するときに重連を組むときに、機関士が車両を移るときに使われることを考慮したのでしょう。

 

電機子チョッパ制御を装備した異色の直流電機となったEF67形だったが、その外観も登場時は驚かされた。国鉄は車体の塗装についても厳格な規定があり、それに則って塗色も決まる。直流電機であれば青15号の地色に、前面に警戒色を兼ねたクリーム色1号の直流電気標準色を身に纏うのだが、広島工場で改造されたEF67形は赤11号1色塗られ、前面の飾り帯の部分には黄色のフィルムを貼付して着色された。広島のモミジをイメージした塗装だとされたが、既にこの頃の国鉄では規定の塗色にとらわれずに、地域の独自性を打ち出した塗色を認めていたこともあり、国鉄電機としてはこのような異色のものになった。そもそも広島工場〔後にJR貨物広島車両所)はチャレンジングな文化があったといえ、民営化後は全般検査で出場した車両も独自色を身に纏ったものもあった。(出典:写真AC)

 

 EF67形は車体にも改造が加えられました。下関方の2エンド側は種車のままで大きな変化はなく、前面窓上に庇が設けられた程度でした。しかし、東京方の1エンド側は貫通扉を設置したため、その評定は大きく変化しました。EF61形200番台と同様、種車のEF60形の前面は窓下を境に上部は後方に傾斜がつけられていました。貫通扉にはその傾斜をつけることができないので、この部分がわずかに突き出たような形になり、EF61形200番台と同じ独特の表情になりました。

 もう一つ、EF67形の大きな特徴はその塗装でした。国鉄では、新性能直流電機は青15号の地色に、クリーム色1号の前面警戒色で塗装することが規定されていました。しかし、EF67形は直流機であるにもかかわらず、全面を赤11号の塗装で登場しました。この赤11号は急行形気動車の帯色として使われる色ですが、EF67形はその規定を破り、まるで交流機のような出で立ちになったのです。そして飾帯は種車時代のクロームメッキ処理ではなく、黄色の粘着フィルムを貼り付けていました。さすがに、登場当時にこれを見た筆者は度肝を抜かれましたが、おそらく多くの人に衝撃を与えたことだと考えられます。

 このような塗装になった背景として考えられるのは、一つは改造を広島工場が担当したことでしょう。広島工場、後のJR貨物広島車両所は独自色の強い検修部署といえ、ここで全般検査を受けて出場した車両が、独自の塗装を施していた例は多くあります。

 EF65形PF更新機の「辛子色の貫通扉」や、EF64形1000番台の広島更新色、DD51形のA更新機の新塗装などなど、数多くの例があります。もっとも、車両の塗装方法や使われる塗料に関しては、国鉄JR貨物ともに定められた規定があるので、検修部署の判断で勝手に変えることはできません。恐らくは、広島工場・広島車両所の関係者が本社の担当部署に折衝して実現させてきたと考えられるとともに、その源流はこの赤11号を身にまとったEF67形であると思われます。

 1982年から3両のEF67形が改造によって製作されると、1号機は瀬野機関区に配置されて瀬野八での補機運用に就きました。しかし、瀬野区配置はごく短く、1984年になると瀬野区が車両無配置になったため広島機関区へ配置転換しました。そして同年に増備機となる2号機が落成し、1号機と同様に瀬野区に配置されましたが、すぐに同区は車両無配置になったことで広島区へ配転されました。

 

EF67形0番台の東京方にある2エンド側は、EF61形20番台と同様に走行中に列車を開放することを可能にするため、電磁空気弁による自動解錠てことブレーキ用の空気管がついたの密着自動連結器が装着され、その分だけ連結器廻りが突き出ている。重連運用は前提としていないため、重連総括制御用のジャンパ連結器はない。これら物々しい連結器部分の上には小さいながらもデッキが設置され、新性能電機としては異例の形状になっていた。車体も貫通扉を増設されたが、もともと種車が非貫通構造であったため、前面窓はEF61形200番台と同様に貫通扉は垂直、窓部分は後部に傾斜がついた独特の形状だった。この貫通扉はEF61形200番台であれば重連運用も想定していたため、機関士が車両を乗り移る際に使うことを考えられるが、EF67形の場合は単機運用が前提であり、重連を組んだとしても1エンド側は非貫通のままだったので、機関士の乗り移りようではなかったと考えられる。(出典:写真AC)

 

 1986年になるとEF67形はもう1両が増備されました。EF60 88号機を広島工場で改造したEF67 3号機は、分割民営化直前のタイミングでの落成でした。この3号機の落成で0番台はすべて出そろった形になり、半世紀以上にわたって走り続けてきたEF59形をすべて置き換えることになりました。

 もっとも、EF59形が総勢で22両であったのに対し、EF67形はたったの3両しか増備されず、それですべてを置き換えるのには数が足らないと考えられるでしょう。実際には、1984年2月のダイヤ改正で貨物列車の輸送方式の大転換により、従来の車扱貨物は原則として廃止、拠点間輸送によるコンテナ貨物列車が主体となったことや、EF67形は電機子チョッパ制御を採用したことで、1200トン級の列車も単機で補機運用をこなすことが可能になったからでした。

 

《次回へつづく》

 

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