《前回からのつづき》
本州の最西端である下関と九州の玄関口となる門司を隔てる関門海峡は、西は日本海に通じる響灘を、東は瀬戸内海、さらには太平洋へと至ることのできる周防灘の間にあり、海上交通にとっては日本海側と太平洋側を往来できる要衝ともいえる場所です。しかし、関門海峡は非常に狭く、早鞆ノ瀬戸と呼ばれる場所はわずか650mしかなく、さらに潮流も激しく変化も多いため、船舶にとっては難所とも入れる海峡の一つです。このような厳しい条件であるにもかかわらず、ここを往来する船舶は非常に多いため、海難事故も発生しやすい場所であるのも事実です。
一方、陸上交通にとって関門海峡は行く手を阻む存在でした。道路も鉄道も、門司と下関で途絶えることを余儀なくされ、鉄道はこの間を往来する鉄道連絡船による輸送をせざるを得ませんでした。
鉄道連絡船というと、かつての青函連絡船や宇高連絡船のような、鉄道車両を載せることができる車載渡船によって航送していたというイメージを持たれることも多いことでしょう。しかし、下関と文字の間に就航していた関門連絡船は、開業当初は車載渡船ではなくごく普通の船舶による運航であったため、車両の航送はしていませんでした。
下関や門司港で列車を降りた乗客は、そのまま関門海峡の向こう岸に向かうために関門連絡船に乗船していた一方、貨物に関しては貨車から貨物を降ろして船に積み替え、僅かな距離を連絡船で運んだ後、対岸の駅で再び貨車に積み込むという手間をかけていました。
しかし、貨物の輸送量が増えてくると、こうした方法での輸送は時間と手間ばかりがかかるだけで、効率的とはいえません。多くの人でも必要になるので、輸送コストの増大を招きます。

第二次世界大戦直後の門司港駅の空撮写真。写真中央から右上に線路が多く分岐しているところの上部が門司港駅、下側は後の門司港運転所。駅側の線路は行き止まり式で、その先には門司港駅の駅本屋がある。そして駅本屋から道路を隔てて突き出た桟橋があるが、ここが関門連絡船が発着していたところと考えられる。門司駅本屋と関門連絡船桟橋は地下道で結ばれていて、ここを多くの乗客が乗り換えのために往来していた。青函連絡船の青森駅や函館駅のように、車両航送は行われなかったため、可動橋など直接乗り入れるための設備はなかった。既にこの頃は関門トンネルが開通した後であり、本州との往来は門司駅に移りつつあった。(出典:国土地理院空中写真サービスより筆者が抜粋加工)
こうした状態か少しでも効率的な輸送をしようと、艀に線路を敷いた車載渡船がつくられます。ところが、あくまでも艀であるので大きさは小さく、積み込むことのできる貨車はたったの3両だけでした。加えて自走もできないので、タグボートに牽かれる形での運航になり、スピードも早いとはいえないものだったのです。
とはいえ、貨車を直接船に積み込むことができるという点では、わずかながらも輸送効率を上げたことはできたといえるでしょう。その後、艀ではなく本格的な車載渡船となる第一関門丸が就航すると、関門連絡船は車両の航送は本格化しますが、それでも全ての量をさばけるには至りませんでした。そのため、下関と門司港には押し寄せてくる貨物が滞留するようになったので、これを解決するのは喫緊の課題でした。
貨物輸送は関門連絡船だけではなく、補助航路となる関森連絡船でも運航されました。下関と門司港より一つ小倉方にある小森江を結んだ航路で、こちらは貨物専用として運航されていました。

関門トンネルが開通すると、ここを通過する列車はすべて門司機関区に配置されたEF10形によって牽かれた。急勾配と漏水による湿度の高さから、蒸気機関車が直接乗り入れるのは不適格であり、下関ー門司間は開通当初から直流電化されていた。しかし、トンネル内を漏れ出る水は塩分を含んだ海水であり、煙害による故障を頻発させ、車体を腐食させていった。そのため、塩害対策を施したり車体をステンレス製に交換したりするなどして対応した。後に九州島内が交流電化されることが決まると、異なる電化区間を直接乗り入れることが可能な電気機関車が必要になる。(パブリックドメイン)
押し寄せてくる貨物の滞留を解消させることや、有事において鉄道連絡船が爆撃などされて輸送が滞ることを危惧した軍部の要請によって、関門海峡を船舶に頼らない輸送手段として、鉄道を通すことを計画します。
前述のように関門海峡はもっとも狭いところで650m程しかないので、当時の建築技術でも海底トンネルを建設することは可能でした。鉄道による一貫輸送が実現すれば、乗客は下関と門司港で乗り換える必要がなくなり、列車は本州と九州の間をそのまま走ることができます。貨物列車も直接双方へ乗り入れることが可能になるので、輸送時間も大幅に削減でき、貨物の滞留もなくなります。
そして軍部が危惧した有事の際は、海底トンネルであるため爆撃などの脅威から遠ざけることができ、そして戦時ともなれば戦争遂行に必要な大量の軍需物資を滞りなく運ぶことができるので、その実現は不可欠なものと認識されていたといえるでしょう。
こうして、1941年に関門トンネルが開通すると、鉄道は連絡船を介した輸送形態から、直接乗り入れる一貫輸送へと転換が図られます。そして、関門トンネルは山陽本線の一部とされ、それまで終点が下関とされていたのが門司にまで延長されました。
《次回へつづく》
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