
クハ111-1378〔千マリ〕 千葉 2006年8月15日 筆者撮影
その昔、東海道本線(湘南電車)と横須賀線が同じ線路の上を走っていたといわれて、ピンと来る人は恐らく筆者よりも年上の先輩方だと思います。筆者も記憶がある限りでは、そのような光景を見たことがありませんでした。
1980年10月に、いわゆるSM分離と呼ばれる東海道本線(列車番号の末尾にMがつく)と横須賀線(同じく末尾にSがつく)が完全に分離されると、横須賀線は品川から東海道本線から別れて品鶴線に入り、そのまま西へ進むと多摩川を渡り、武蔵小杉付近で南下して新鶴見操車場や新鶴見機関区近くに新設された新川崎に停車、そして鶴見で東海道本線に並走する形で増線された線路を走るようになりました。
このSM分離によって、筆者は横須賀線を毎日のように見ることができるようになり、横須賀色に塗られ、グリーン車2両を連結した15両編成の113系に圧倒されたものでした。
そして、少ない小遣いをはたいては、新川崎から川崎まで、この113系に揺られて横浜あるいは品川経由で遊びに出かける「小旅行」を楽しんだものです。もちろん、当時は親にも言えず、学校でも話題にすることはしませんでしたが。
クハ111-1378は、1978年8月に近畿車輛で落成し、横須賀・総武快速線用として幕張電車区(現在の幕張車両センター)に新製配置された113系1000番台の制御車で、偶数向きの先頭車として使うため、床下には空気圧縮機を搭載しているので原番号に300をたした1300番台に区分されました。
横須賀・総武快速線の乗り入れにあたって、品川から東京を経て錦糸町までの間を長大な地下区間になることから、当時の運輸省が制定した地下鉄線車両の基準であるA-A基準に準拠した仕様としました。
基本設計は0番台と同じで、車両の何年か対策を徹底的に施しました。客室の設備などは難燃化素材を使い、電気配線は被覆が破損した時に漏電火災を起こさないようにすべて配管の中に収めるなどされました。また、地下線内で火災角の事故が発生したときに、乗客が速やかに脱出することができるように前面には貫通扉の設置が義務付けられていましたが、113系はもともと貫通構造であるため、この点では特に変更されることはなかったのです。
1000番台は製造開始当初は、地上線用の0番台を基本としていました。しかし、品川−錦糸町間の地下線区間の信号保安装置にATCを採用することが決まると、初期に製造された1000番台では車上装置を設置するスペースが確保できないことから、先頭車の構造の一部を変更することになりました。
こうして製作されたのが、1000’番台だったのです。クハ111−1378はATC車上装置を設置することが可能な1000’番台であり、乗務員室の直後にはATC機器室を設けたため窓はなく、その隣の戸袋窓は車体中央部の乗降用扉の戸袋窓と同じサイズの大型のものが設置されていました。
また、外観で識別できる点として、前面のタイフォン(警笛器)の位置が挙げられます。地上線用の車両は全部標識灯の横に設置されていますが、地下線用の1000番台は下部に移されたことでしょう。
クハ111には一部を除いてトイレが設置されていますが、1000番台と1000’番台は地下線を走行するため、地上線用の車両の「垂れ流し式」ではなく、製造当初から循環式汚物処理装置が設置されていました。
クハ111−1378は、幕張電車国配置されると計画通りに横須賀・総武快速線をはじめ、総武本線や外房線、内房線などで使われました。
1987年の国鉄分割民営化では、幕張電車区配置のままJR東日本に継承されましたが、その後も運用は大きく変わることはありませんでした。しかし、横須賀・総武快速線に次世代車両となるE217系が投入されると置き換えが進み、1999年までに撤退して房総地区のローカル運用に転じました。
横須賀・総武快速線撤退後も幕張電車区→幕張車両センター配置は変わることなく、その後10年にわたって房総地区の人々を運ぶ役割を担い続けましたが、製造から40年近くが経つと老朽化が進んだことや、東海道本線や高崎線系統から211系が後継として転じてきたこともあり、2010年12月にに運用から離れていき廃車とされ、38年に渡る長い歴史に幕を下ろしました。
国鉄分割民営化やE217系への置き換えなど、大きな転換期はありました。その時々で、僚車が配置転換によって去っていったり、廃車となって姿を消したりしていく中、クハ111−1378は新製配置以来、一貫して幕張に配置のままでだったことは、ある意味では幸運であり、幕張の主的な存在だったといえるでしょう。
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