いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。
新型コロナウイルス感染拡大防止の緊急事態宣言も解除され、少しずつですが社会活動が再開され始めています。特に筆者のいまの生業である学校関係は、2月28日の唐突な休校要請で、3か月以上に渡って臨時休業を余儀なくされ、この間教育活動は停滞したままでした。
ようやく再開した学校ですが、それは3月以前とはまったく異質なもので、児童・生徒同士の交流が極端に制限され、もはや「教科書の学習を学ぶだけの場」となってしまいました。
加えて、毎日のように教室全体を消毒することに追われ、肝心な仕事はといえば片付かないことも多くなってきています。
こうした日々になってしまったので、ブログの更新もできない日がありますが、引き続きご愛読いただければ幸いです。
前段が長くなってしまいましたが、鉄道を安全に運行するために欠かせないのが保安装置です。一言で保安装置といっても、それは多岐に渡ります。信号や転轍機、踏切などなど挙げればキリがないほどです。
しかし、そのどれもが欠かすことのできない重要なもので、その維持・管理もまた大切なことでした。筆者も鉄道マン時代に現場に出れば、信号関係の作業はとにかく緊張したものです。一歩間違えれば大惨事を引き起こすと、耳にたこができるほど先輩に言われたものです。
その保安装置の中でも、特にATS(自動列車停止装置)が絡むと、ただでさえ神経を尖らせる仕事が余計に張りつめたものになりました。
さて、ATSは1960年代に相次いだ重大事故を契機に開発され、国鉄・私鉄を問わず全国の鉄道で装備が進みました。国鉄では、当初はいわゆる国電区間では軌道電流式のB型が、その他の線区では地上子式のS型が使われていました。
しかし、いずれも車内警報音が鳴って運転士が確認の操作をすると、信号の見落としや誤認などで停止現示をしている信号機を超えても、列車は非常ブレーキがかからずに進むことができるという脆弱なシステムでした。
当時の運輸省が私鉄に対してATSには速度照査機能をもたせることを義務づけしたにもかかわらず、国鉄は運輸省が出す省令の範疇外*1とされ、ATSはこの機能がなかったため、後年になり中央本線東中野駅や飯田線北殿駅で起きた列車衝突事故の遠因となってしまったのです。
民営化後に相次いだ重大事故から、同様の事故を二度と起こさないためにも、新型のATSが開発されました。新型のATSは、S型に代わってSn型、B型に代わってP型が導入されます。
前者はS型の改良形でしたが、停止現示をしている絶対信号機を列車が超えたとき、どのような理由があっても即座に非常ブレーキを作動させて信号冒進を防ぐ機能がもたせられました。
また、速度照査機能を追加したことで、列車が地上子を通過したときに設定された速度よりも列車の速度が上回ったときには、同じく非常ブレーキを作動させる機能もありました。
S型と比べて保安性能が向上したSn型は、民営化後にS型を更新する形で電車区間以外のJR線に設置が進められました。ちょうどこの頃に鉄道マンだった筆者も、この更新工事にかかわり、地上時の交換工事や増設工事に立ち会いましたが、新しい地上子の設置は昨日によって種類も異なり、直下地上子(主に白色)とロング地上子(主に緑色)の違いを覚えるために苦労したものです。
一方、車両側もSn型に対応した車上子が必要となりました。旅客会社は次々とSn型の車上子への交換が進みましたが、貨物会社の機関車は少し遅れ気味でした。同じSn型なら、旅客会社の車上子をそのまま購入して載せればよいと考えられますが、実際にはそうはいかず、貨物列車を牽く機関車専用の車上子が必要となったのです。
これは、主に電機指令ブレーキを装備する電車や気動車と、自動空気ブレーキを装備する電気機関車とでは、そのブレーキ性能やブレーキ作用の原理が大きく異なることが原因でした。
そのため、貨物会社では独自の車上子を開発することが迫られ、旅客列車に比べて大きく重量の嵩む貨物列車で、自動空気ブレーキに対応したSF型車上子を開発し、電気機関車やディー説機関車へと装備させていったのです。
一方、電車区間は軌道回路式のB型でしたが、こちらはSn型ではなく、新たに開発されたP型になることが決まっていました。電車区間は他の線区に比べて運転頻度が非常に高く、また増発によって混雑緩和をも目指していたことから、絶対信号機までの距離と列車の運転速度からコンピュータが計算し、適切なブレーキパターンを算出させてブレーキをかける方式です*2。
この動作原理によって、従来は閉塞区間に必要だった安全距離が短縮され、列車の許容量が増すことで、運転頻度を高くすることが可能になりました。
このP型もまた、1990年代に開発されて電車区間に設置されいきます。Sn型とは異なりB型とは互換性がないため、設置は列車が高頻度で運転され、混雑が激しく列車の増発が必要な線区から整備されていきます。(ATCを使用している山手、京浜東北、常磐緩行は除く)
Sn型の整備に比べて、B型の整備は比較的ゆっくりでした。これは、貨物列車などB型非対応の列車が運転されることが想定されていたため、これらの区間にはS型→Sn型が併置されていたので、高価なP型の整備は急がれなかったのでした。
とはいえ、相次ぐ事故を契機に「異常時には確実に列車を止める」ことが目的の保安装置なので、いつまでもノンビリとはしていられませんでした。加えて、B型からP型に更新した区間では、Sn型もの併置が続いていたのですが、これでは高機能で高価なP型はそれに対応した車両だけが使うというのはコストに見合いません。さらには、併置されたままのSn型も維持しなければならなず、運用コストも嵩んでしまいます。
そこで、旅客会社はP型設置区間については、すべての列車の保安装置をこちらに統一し、Sn型の併置を止めることにしました。
この方針で、最も困ったのは貨物会社でした。機関車にはSn型の貨物機版であるSF型は装備していましたが、P型は装備していません。さらに、前述のように貨物列車はブレーキ特性が異なるので、これまた高価な車上子を開発しなければなりませんでした。
無論、貨物会社はP型区間も列車を運行しなければならないので、新たに貨物機用の車上子となるPF型を開発します。順次、これらの区間を走行する機関車に設置していきますが、高価なためすべてというわけにはいきませんでした。
EF65はP型設置区間を走行する可能性が最も高い電機でしたが、さすがに車齢も高く、いくら更新工事を施したとはいえ老朽化も進み、いずれ新型のEF210などによって置き換えられる0番代や500番代については、PF型車上子の設置が見送られました。
言い換えれば、P型区間におけるSn型の運用を終了する2008年には、これら未設置の0番代・500番代はすべて引退を余儀なくされたのでした。
写真は総武本線を走り、千葉駅を単機で通過していくEF65の115号機です。ご覧の通り、貨物2色更新色を身に纏っていますが、更新工事は1993年に受けていました。2007年頃の撮影で、高崎機関区に所属しているこの機関車は、既に翌年にはPF型未装備だったために、首都圏の運用から撤退することが決まっていました。
115号機は1869年8月に、川崎重工・富士電機のコンビによる制作で落成、稲沢第二機関区に新製配置されます。稲沢第二に配置のまま、民営化を迎えて貨物会社に継承され、主に東海道・山陽本線で使用されます。1996年に高崎機関区に転属して、首都圏を中心とした貨物列車の先頭に立ち続けました。
同じ高崎機関区に所属する500番代は2008年にすべて廃車となって、その栄光の歴史に幕を閉じ、同じ0番代である僚機の一部も用途を失い廃車となってしまいましたが、115号機はそのまま高崎に留まらず、この年には岡山機関区へ配置転換されました。
その後も、山陽本線などで使用されましたが、EF210の新製配置によって押し出された新鶴見の1000番代が岡山に転属してきたため、2011年に廃車となって40年以上に渡る歴史に幕を閉じました。
筆者は同じ貨物会社に所属し、ほぼ毎日のようにこうした機関車を横目に仕事をしていたにもかかわらず、非貫通型のEF65を記録した写真は非常に少ないので、この115号機は貴重な一枚でした。いま考えれば何とももったいないと思うものの、現役当時は「趣味と仕事を一緒にしない」というポリシーと、何より自分の身を守りつつ多くのことを覚えなければならなかったこと、何より線路内に立ち入ることが常という鉄道マンでも比較的危険な業務に携わっていたので、その余裕がなかったのでした。
まあ退職後にこちらの趣味をすればよかったのですが・・・(笑)
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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