旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 1980年代の新鶴見機関区・操重車倉線で佇むEF65 1070【1】

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 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 小学校4年生の頃、家から歩いていくことができた新鶴見機関区に、カメラを片手に訪れたことがありました。このブログでもお話させていただいたことがありますが、今では小学生が一人でJRの運転区所に写真を撮りに行くなど、考えられないことです。たとえ行ったとしても、危険だからという理由で門前払いされるのが関の山でしょう。

 筆者も鉄道マン時代に、写真を撮らせてほしいと訪ねてきた人の対応をすることがありましたが、残念ながら要望には応えかねお断りしたことがあります。やはり、鉄道の、特に貨物駅の構内は貨車の入換が激しく、また、コンテナを貨車から積み下ろしするフォークリフトや、それを載せるトラックがひっきりなしに走るので、万一事故に遭ってからは手遅れです。しかも、鉄道マンとしてはまだ駆け出しだったので、そのような権限はなく、また電気区の所属で駅構内は駅の管轄だったので、勝手なことができなかったのです。

 今日では、危険だからという理由だけではなく、部外者を立ち入らせることで法令に抵触することや、テロ対策としてもほとんど不可能なほど許可は出ないでしょう。

 そうした今日の事情からすると、国鉄時代はなんと素敵な時代だったのでしょう。おおらかでのんびりとして、そして少々のことでは目くじらを立てず、いい意味でも悪い意味でも大雑把だったのかもしれません。

 その「小さな見学会」では、様々な写真を撮らせていただきました。

 今回ご紹介する写真は、そのうちの1枚です。

 新鶴見機関区には、当時、操重車が配置されていました。操重車はクレーンを搭載した事業用貨車で、列車の脱線事故などが起きたときに救援車とともに出動し、脱線した車両を吊り上げて複線させる役割をもつ車両です。この特徴的な大型の貨車は、滅多なことでは出番がありませんでした。いえ、出番がないのが一番の貨車なのです

 その操重車は、操重車倉線(そうじゅうしゃくらせん)と呼ばれる、運転庁舎に最も近いところにありました。倉線という名の通り、大型の車体をもつ操重車をすっぽりと収めることができる三角屋根の上屋をもつ車庫があり、ここには黄色く塗られたソ88が待機していました。今日はソ88は廃車となってその姿がなく、民営化後間もない頃はどういう経緯だったのかは分かりませんが、西武鉄道から購入したE41やDE15がラッセルヘッド付きで留置されていましたが、いずれも後年に解体されてしまい、現在では休車となった車両の保管庫となっています。

 さて、この操重車倉線の上屋のすぐそばに留置されているEF65PFを撮影したのがこの写真です。

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EF65 1070〔新〕 1983年8月頃 新鶴見機関区(筆者撮影)

 

 車体側面の中央部、ナンバープレートの上にはJRマークがないことからも、国鉄時代に撮影したことがよくわかります。

 ナンバープレートから、EF65 1070号機と読み取れるのがおわかりいただけるでしょうか。

 この頃はまだ、東海道山陽本線で運転されていた寝台特急は、EF65PFがその先頭に立っていた時期なので、詳しい事情をよく知らない小学生だった筆者は、「なぜ、ブルトレの牽引機がここにたくさんあるんだ!?」なんて思いもしたのでした。もっとも、その詳しい事情を知るのは、この写真を撮影してから10年後、貨物会社の職員になってからですが。

 もっとも、付き添ってくれた運転助役の方は、当時、国鉄自慢の最強機であるEF66を筆者に見せたかったようで、「今日はロクロクはきていないなぁ〜」と言っていたのを今でも覚えています。この頃、週3回ほど剣道の稽古に通っていて、そのたびに機関区や操車場を越える跨線橋を渡りましたが、EF66新鶴見にいる姿は見たことがありません。おそらくは、何らかの運用の都合で来ることもあったのでしょう。

 EF65 1070号機は、首都圏に残存していた旧型電機の置換え用として、昭和51年度第1次債務車の1両として、1976年に製造されました。形態的には第6次車と呼ばれるもので、いわゆる「後期型」の第一陣でした。

 EF65 1000番代PF形は、1969年から製造されていましたが、1971年に第5次車の製造が終了してから、しばらくは増備がされませんでした。そのため、第6次車が1975年に製造を再開されるまで4年のブランクがあり、製造再開にあたってはいくつか設計が変更されました。

 大きな特徴は、なんといってもパンタグラフではないでしょうか。第5次車までは国鉄直流電機の標準であるPS17を装備していました。PS17はパタグラフとしてはオーソドックスな菱形で、基本的には電車用のPS16と同等でした。ただし、PS16はバネの力で上昇する方式であったのに対し、PS17は架線追従を確実にするために空気圧で上昇する方式へと変更しました。

 1070号機を含む第6次車以降は、このPS17から下枠交差式のPS22へと変更され、屋根上が非常にスッキリした印象になり、同じ1000番代PF形でもよりスリムで近代的な姿になったといえます。

 また、ナンバープレートの仕様も変更されました。第5次車までは切文字を車体に直接貼り付けていましたが、第6次車以降はステンレス板にエッチング加工したナンバープレート式に変更し、前面周りはさらにスッキリとした感じになりました。

 他にも、従来は電動送風機を作動させなくても、機関車自体の起動ができましたが、第6次車からは電動送風機を作動させなければ機関車を起動することができないように回路が改められたのです。これは、電動送風機が機関車の電気機器を冷却する役割を担っているにもかかわらず、電動送風機を作動させないで起動すれば、発熱する機器が破損し、最悪の場合は火災にもなってしまいます。電動送風機を連動させることで、こうした事故を防ごうと考えたと思われます。

 

《次回へつづく》

 

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