旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

ダイヤモンドカットよ永遠に 東急電鉄7200系【5】

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《前回からのつづき》

 

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 7200系は、新製されたときは冷房装置のない非冷房車でした。1960年代の製造だったので、当たり前といえばそれまでですが、1970年代に入るとそれが少しずつ変化していきました。国鉄では特急用の優等列車に使われる車両では製造当初から冷房装置を装備していましたが、それ以外、特に普通列車に使われる車両はほとんどありませんでした。ところが、1950年代終わりごろに、名古屋鉄道が一般用の車両に冷房装置を装備して、乗客サービスを大幅に向上させたことから状況は一変しました。そして、徐々にではあるものの、多くの鉄道事業者は一般用車両への冷房装置の装備を進めることになります。

 東急も1971年に製造した8000系第2次車の8019Fが、新製時から冷房装置を装備させました。そして、7200系も田園都市線で運用していた2両編成4本、計8両に冷房装置を搭載する改造を施しました。搭載した冷房装置は東芝製RPU−2204形分散冷房装置で、8000kcal/hの冷房能力をもし、これを4基として全部で32,000kcal/hとしました。また、新製されたときから装備していた扇風機は残し、これを併用することで冷房能力を補っていました。

 そして同じ年に、吊り掛け駆動の旧性能車の牙城ともいえる目蒲線に、3両編成の7260F(デハ7260+デハ7452+クハ7552)が配置され、冷房装置を装備していたことから同線初の冷房車として導入されました。これは、東横線田園都市線に続々と新型車両の配置と冷房化が進められていたのに対し、支線格である目蒲・池上の両線は依然旧型車の牙城であり、置き換えられたとしても東横・田園都市の両線から、新型車の配置で玉突きで押し出されてきた中古車両の配転によるもので、その格差が大きくなっていた事からこれを解消させるこために、オールステンレス車でしかも冷房車である7260Fが配置されたのでした。

 もっとも、目蒲線で運用されていた車両のほとんどが非冷房で、しかも吊り掛け駆動の旧型車だったのに対し、たった1編成の冷房車が入ったところで乗客サービスの大幅な改善とはいきません。ホームで列車を待っていても、冷房車である7200系に乗れるのは言葉が悪いですが博打のようなものであり、恐らくは「新型車両を入れた」という事実をつくるためだったと考えられます。

 1979年になると7200系は大きな転機を迎えました。

 それまで大井町二子玉川園−つきみ野間を田園都市線として運行していたのを、二子玉川園で系統を分離するとともに、新たに開業した新玉川線渋谷−二子玉川園間と二子玉川園−つきみ野間を直通運転とし、同時に大井町二子玉川園間を大井町線と改め、二子玉川園−つきみ野間を田園都市線としました。この系統分離によって、田園都市線で運用する車両は新玉川線の地下区間に対応した8500系に統一し、それまで運用していた7200系は押し出されたことで東横線に転じたのです。そして、目蒲線で運用されていた車両を除いたすべての7200系が元住吉区配置になりました。

 驚くべきは、この配置に際して8両編成を組んだことでしょう。その組み方が非常に変わったもので、2両編成を4本連結するというものでした。中間に組み込まれる先頭車は6両にも達し、その部分は乗客が乗ることのできない「デッドスペース」となってしまいます。特に東急のようなコストを最小限に抑えて収益を最大化させる経営方針では、異例中の異例ともいえる編成だったといえます。

 

 

 7200系は1M方式、それもほとんどが先頭車で構成されていたため、やむを得ないものであったといえるでしょう。東横線で運用されていた8500系田園都市線に転出させ、その穴埋めにとして押し出されてきた7200系であり、それを活用するためにはこのような先頭車だらけでも8両編成を組むしかなかったと考えられるのです。

 しかし、東横線での活躍は長続きしませんでした。すでにこの頃の東横線は混雑が激しくなる一方で、18m級の中型車である7200系では多くの乗客をさばくことができなくなってしまったのです。これを解消するため、20m級の大型車である8000系を増備してて対応していましたが、1980年に8000系の改良型である8090系の製造が始められて配置されると、再び押し出される格好で大井町線目蒲線、そして池上線のいわゆる「目蒲3線」へ配置転換しました。

 大井町線に配転となった車両は、東横線で6両編成を組んでいた2編成から1両ずつ抜き取り、5両編成2本に組み替えられました。そして、捻出された2両は2両編成となりましたが、この車両はアルミ試作車であるデハ7200−クハ7500で、これはこどもの国線で運用されることになりました。

 この後も、東横線8090系などが増備されるたびに7200系は押し出され、最終的には大井町線では6両編成を、目蒲線と池上線では3両編成を組んで運用され、1983年には東横線から完全に退いていきました。

 

《次回へつづく》

 

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