《前回からのつづき》
1991年に高校を卒業すると、このブログで何度もお話してきたように、貨物会社に採用されて鉄道職員になりました。4月1日付で関東支社に採用、総務部総務課勤務を命じられましたが、翌日の4月2日付で九州支社総務課勤務を発令されました。たった1枚の紙切れで、どこへでも異動を命じられる社会人の厳しさを、社会に出てわずか1日で味わうとは思いもしませんでした。
もちろん、拒否をするなど考えられることでもなかったので、命じられた通りに九州支社のある福岡県北九州市の門司に赴任します。門司といえば、本州と九州の結節点、関門海峡がありその海底には関門トンネルがあります。ここを通過する列車はすべて、交直流両用の車両に限定され、電車であれば415系などの交直流近郊形が通しで運行されていました。電気機関車は、必ず客車列車は下関駅で、貨物列車はそこから少し東にある幡生操で機関車を付け替えていました。そして、九州島内では門司駅と門司操車場(門司操)でこの作業が行われるので、門司は筆者が育った新鶴見と同様に、「鉄道の町」といっても過言ではないほど、多くの鉄道施設があったのです。
分割民営化から7年が経っていましたが、多くの施設が使用停止あるいは廃止されたとはいえ、まだまだ国鉄時代の名残が多くあり、門司操の跡地には幾重にも敷かれた線路が残り、拠点となる門司機関区も健在、門司駅は国鉄時代の長大編成を組んだ列車に対応できる長くて幅の広いホームと、そこには昔日の旅人たちが使ったであろう水飲み場などもありました。
そんな、長い歴史と国鉄の残り香を色濃く漂わせた門司には、かつて多くの国鉄職員が勤務していたので、周辺には国鉄官舎が数多くあり、そして独身者のための鉄道寮もありました。筆者はJR九州と共同使用していた門司第一鉄道寮に入居し、ここで一人暮らしを始めたのです。
さて、高校を出て間もない九州赴任組には、一つだけ「特典」が与えられました。それは、月に2回、会社の負担で実家に戻ることができるというもので、往復4万縁近くの旅費を払うことなく、帰省できるのでした。
当然、こんな特典は今では考えられません。そんなことをしたら、たちまち会社の経費は膨れ上がるので、当時のこの待遇は破格以外何ものでもなかったのです。もちろん、これ幸いにと、よほどのことがなければ規制を申し込み、往復の旅を楽しみました。
あるときは寝台特急で、あるときは空路でと、毎回その行程を変えたものです。
筆者が多く使ったパターンは、門司から横浜までは寝台特急、戻るときは新幹線を利用しました。
新幹線で門司に戻るときに最も多く使ったのは、新横浜駅から新大阪駅行きの「ひかり」に乗り、新大阪から小倉駅までは「ウェストひかり」に乗り換えるというものです。
分割民営化後、山陽新幹線を継承したJR西日本は、関西圏対九州間では安価な高速バスや航空機との競争にさらされ、利用客数の獲得に苦労していた。そこで、0系の中で状態のよい1000番台や2000番台に体質改善を施工するとともに、普通車指定席に充てられる車両を従来の2-3アブレストから2-2アブレストに換えて、より快適性を高めた「ウェストひかり」の運行をはじめた。見た目は窓周りの帯下部に、100系と同じ細いラインを追加した独自のもので、乗降用ドア脇にはオリジナルのマークが貼付されていた。
新横浜から乗る「ひかり」は、0系だったり100系だったりとまちまちでした。この頃の0系は、外見こそ国鉄時代から続くあの団子鼻の丸みを帯びた車両ですが、側窓の長い0番代や、小窓が並んだ1000番代、200系の設計思想を取り入れた2000番代、さらには国鉄末期から分割民営化後に改造を施されたものまで入り混じり、との各バラエティーに富んでいたものでした。
「ウェストひかり」は、0系から状態の良いものを選び、指定席として設定する普通車も、山側海側ともに2−2のアブレストとし、さらに従来は海側はアブレストを3としていたため、回転できなかったのが2となったことで山側同様に回転できるようになりました。また、シートピッチも改善され、足元は広くなったためより快適性が高められたのでした。
また、車体の塗装は0系のパターンを踏襲しつつも、青色の帯は100系と同じ太い帯の下に細い帯を巻くなどして、在来車と差別化を図りました。
そんな、ちょっとだけ「お得感」のある「ウェストひかり」を狙って乗り継ぐので、わざわざ新大阪駅で乗り換えるのですが、それは定刻通りに運行されていればこそできることで、大雨や雪などによって東海道新幹線のダイヤが乱れると、たちまち乗り継ぐ予定だった「ウェストひかり」に乗り遅れてしまうこともしばしばあったのです。
できるだけ地元にいたいと考えた当時の筆者は、新横浜駅を16時30分頃に発車する「ひかり」に乗り、3時間ほどかけて新大阪駅に着くと、休むまもなく19時36分発「ひかり147号」へ飛び乗っていました。そして、「ウェストひかり」は12両編成に短縮していたので、東海道新幹線の「ひかり」のように食堂車がなかったので、夕食は新大阪駅に着くまでに食堂車で済ませるか、車内販売で駅弁を買うか、はたまた降車駅としていた小倉駅、あるいは寮の最寄り駅となる門司駅まで我慢するかという選択を迫られたのものでした。
もちろん、空腹にはかなわなかったので、車内販売で弁当を買って食べながら、宵の闇に包まれた山陽路の車窓を眺め、ちょっとだけ望郷の念にかられながらも、翌日からの仕事にワクワクもしていたのを思い出します。
普通車指定席に充てられる車両は、従来の海側3列、山側2列の3-2アブレストを改め、海側も2列にした2-2アブレストにした。同時に座席幅も広げ、座り心地のよいグリーン車並のものとして差別化を図った。
ところで、この「ウェストひかり」の乗り継ぎですが、列車がダイヤ通りに運行されていれば問題はありませんでした。乗り継ぎまでの時間はわずかに6分ほどしかなく、なんとなく忙しい感じもしましたが、当時は「せっかち」な性格が勝っていたので、この6分はちょうどよかったのです。
ところが、何らかの原因でダイヤが乱れていると、この乗り継ぎは「不発」になってしまいました。
東海道新幹線の「ひかり」に乗っていると、列車が途中、止まるべきでないところで止まりました。車両故障だったか悪天候だったか記憶が定かではなくなってしまいましたが、乗っていた「ひかり」が遅れてしまったのは確かです。
当然、新大阪駅到着は定刻よりかなり遅れでの到着。乗り継ぎ予定だった「ウェストひかり」は既に発車したあとで、手持ちの指定席券(指定席特急券ではない)でも、立席なら別の列車にも乗れるとのことで、やってきた博多駅行き「ひかり」に飛び乗りました。
当然、東海道新幹線でダイヤが乱れていたので、山陽新幹線の「ひかり」にもそれは波及し、まるで東京の通勤ラッシュ並みの大混雑。筆者も何とか列車に乗れはしたものの、デッキで小倉駅に着くまで約3時間近く立ちっぱなしになる羽目になりました。
まあ、今でも8時30分から12時過ぎまで立ちっぱなしになることなど、日常茶飯事の仕事なのでこれくらいは耐えられましたが、やはり腹が空くのだけはいかんともしがたいものがあったのですが、そこは何とか我慢。結局、門司駅に何とかたどり着いて、駅前の牛丼店で食べた牛丼の味は、格別に美味しく感じたものです。
今では「のぞみ」主体のダイヤ編成になり、運用されている車両も東海道ではN700A系やN700S系の二択、山陽でもN700A系が主体でわずかに700系が残るほどになり、車両を選んで乗る楽しみはなくなってしまいました。分割民営化間もない頃だからできた、新幹線の楽しみ方だったと思います。
《次回へつづく》
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