《前回からのつづき》
同じ東海道・山陽新幹線を使って、福岡と実家を往復した中で、筆者の利用歴で最も異色だったのは、友人のお父さんの葬儀に出るために帰省した旅でした。随分とお世話になった方だったので、何としてでも参列したいと指定席を取ろうとしたものの、都合の良い列車はあいにくの満席。みどりの窓口で、JR九州の営業係にお願いして、マルスを何度叩いてもなかなかいい列車が見つかりませんでした。
このときは、さすがに新大阪出来で乗り継ぐなどという悠長なことも言っていられなかったので、往復とも博多駅―東京駅間を通しで運転する列車を申し込んだことが、普通車指定席をとることができなかった要因だったのかも知れません。
それならば、グリーン車は空いているのかと尋ねると、今度は二つ返事で「空いてるよ」とのこと。しかも「ガラガラ」だというので、値段は高くなってしまいますが、往復グリーン車の席をとることにしました。
東海道新幹線の開業以来、長く製造と同一系列による置き換えが続けられてきた0系だったが、開発から20年以上も経つとさすがに接客設備の面で陳腐化が否めなかった。国鉄の経営状態が悪化した中でも、こうした状態を放置することもできず、1980年代に入るとようやく次期新型車両の開発が始められた。100系は0系にはない設備をもった車両として登場、特に2階建て構造の車両とグリーン車への個室設定は、国鉄としては斬新活大胆な改革であったといっても過言ではない。(123-1 リニア鉄道館 2019年7月25日 筆者撮影)
当時、貨物会社の職員には、片道100km以上をJR線に乗車する場合には、「職割」という制度を利用することができました。かつて、国鉄時代には職務乗車証というものが職員に交付され、所属する鉄道管理局管内は無料で乗ることができたらしいのですが、分割民営化で自前の「線路」をもたない貨物会社の職員には、国鉄時代にあった恩恵がなくなったことに対する旅客会社職員との間の「不均衡」を是正するために、職割は多めに支給されていました。
筆者もこのときは「職割」を使って帰省しました。半額となるのは乗車券や特急券はもちろん、グリーン券も半額になるというちょっとお得なもの。言い換えれば、グリーン券も含めてすべて小人料金で乗ることができたのです。
それでも、安月給(当時の初任給は、高卒で128,000円。所得税や社会保険料を差し引かれると、やっと100,000円に届く程度の水準でした)の身には厳しい出費でしたが、そこは義理を果たさなければなるまいと、「大枚をはたいて」の帰省となったのです。
こうして、小倉駅から東京駅行きの「ひかり」に乗ったのですが、やってきたのは当時最新鋭だった100系。シャークノーズと呼ばれた直線的かつシャープなデザインの先頭車に、中間には2階建て車両を連結した、新幹線車両の中でも画期的なものでした。
そのグリーン車に乗ると、とにかく静か。それもそのはず、乗っている人はほとんどいないのです。しかも、その車両には筆者も含めて2、3人ぐらい。バブル経済の崩壊が始まった頃でしたが、こういうところに影響が出始めていたのかも知れません。
100系のグリーン車に乗ったのは、このとき限りでした。九州での勤務を終えて関東に戻ってきたあとは、新幹線に乗る機会はほとんど得られなかったのです。
記憶にある限り、東海道新幹線に再び乗る機会を得たのは、2008年の夏でした。この年に、筆者は扁桃腺を摘出する手術を受け、せっかくの長い夏休みも自宅にいることがほとんどでした。
そうはいってもちょっとは出かけてみたいと、病み上がりの体を押して小田原まで小旅行をしました。行きは湘南新宿ラインで行き、帰りはどこか遠くへ旅行に行った帰り道の感覚だけでも楽しもうと、小田原駅から品川駅まで「こだま」に乗ったのです。
鉄道職員時代以来の東海道新幹線は、車両の世代交代も進んでいて、主役は300系から700系、さらにはN700系へと代替わりしている時期で、当然、幼い頃から慣れしたん死んできた0系はもちろん、国鉄が鳴り物入りで投入した100系の姿もなく、「のぞみ」のスピードアップに貢献した300系ですら、既に二線級に退いていたのです。
分割民営化後、JR東海は東海道新幹線のさらなるスピードアップと所要時間の短縮、旺盛な需要へ応えるための列車の増発という課題に対して、新たな車両として300系の投入と「のぞみ」の運行を開始した。東京ー新大阪間は3時間弱ほどで、東京ー博多間は6時間を切る所要時間の達成は、高速バスや航空機に対抗する切り札ともなった・100系と比べて高速性能は向上したが、アルミニウム合金を使ったシングルスキン構造、空気抵抗を抑えるために車高を低く抑えたことによる天井の低さは、車内の居住性を低下させて必ずしも快適な車両とは言いがたかった。(300系J54編成 小田原駅 2007年7月16日 筆者撮影)
小田原駅から乗った「こだま」は、300系で運転されていました。最初で最後の300系でしたが、車内に入るとなんとなく窮屈に感じました。
それもそのはずで、300系は空気抵抗を減らすために、車体の断面が従来の新幹線車両と比べて小さくされていたのです。特に車高の低さは0系よりも低いために天井が低く、しかも軽量化のためにアルミニウム語彙金を使ったシングルスキン構造は、真夏の太陽の日差しから熱を遮断するのには不十分で、窓際に座ろうものなら暑くてどうしようもないものでした。
それでも、「のぞみ」のスピードアップと到達時間を短縮させたことは、300系があったからこそ実現できたものであり、東海道・山陽新幹線の歴史を塗り替えた立役者であったことは疑いのないことといえるでしょう。
《次回へつづく》
あわせてお読みいただきたい