《前回からのつづき》
碓氷峠は古来からの交通の要衝でした。この碓氷峠と、神奈川県の箱根にある足柄峠を境に、これより東は「坂東」と呼ばれていました。後に関東と呼ばれるようになりますが、国の中心が奈良や京都などだった時代からすれば、これより東は影響力が大きく及ばない「異郷の地」ともいえたと考えられます。
時は流れて江戸時代になると、「五街道」と呼ばれる道路が整備されます。全国統一を果たした徳川幕府は、その影響力を強めるために江戸を中心にした幹線道路をつくりました。東海道、日光街道、甲州街道、奥州街道、そして中山道です。中山道は江戸と信州を通って近江国草津宿(現在の京都府草津市)までを結んだ街道で、東海道に対する並行道路としての役割もありました。
そして、この中山道は碓氷峠を通るルートとなり、江戸から下っていく場合に最初に立ちはだかる難所でした。麓の横川には関所も置かれ、箱根関所などと同様に「入り鉄砲に出女」を取り締まる江戸防備を担っていました。その関所の近隣には坂本宿が置かれ、40件もの旅籠があるなど比較的大きな宿場町として栄えていました。
その意味でも、碓氷峠とその麓の横川は交通の要衝だったのです。
国道18号線中山道を登り、碓氷峠付近で県境を越えるJRバス関東・碓氷線の路線バス。北陸新幹線の開業により、信越本線の横川ー軽井沢間は「並行在来線」として廃止になり、代替として路線バスが運行されている。後方に見える道路もまた勾配が険しいため、バスも速度を上げて走ることは難しい。こうした勾配が碓氷峠区間には連続しているため、鉄道はもちろんのこと道路にとっても難所であるといえる。(©Rs1421, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Cmmons)
明治に入り鉄道が日本に走るようになると、東京と信州を経て京都へ至る鉄道路線として「中山道幹線」が計画されました。太平洋沿いを走る鉄道が、東海道に沿って計画されたように、中山道沿いに鉄道建設が計画されたのはごく自然の考えといえるでしょう。しかし、この中山道には碓氷峠という難所があり、これを何とかして鉄道で越えていこうと様々な方法が考えられました。
通常、こうした峠を越える場合には、峠の両側からトンネルを掘削する方法が採られます。トンネルであれば、高低差を比較的少なく抑えることができ、特殊な設備を備える必要もありません。
しかし、碓氷峠はその成り立ちでもお話したように、軽井沢を最高地点とし、その東側だけに勾配を擁する片峠という特異な地形をしています。横川方からトンネルを掘削して勾配を抑えながら峠を通過しても、反対側は峠と同じ標高である平地が広がっているため、極端に長大なトンネルを建設しなければならなくなります。当時の土木建築技術では長大なトンネルを掘削することは難しく、できたとしても莫大な建設費と膨大な数の人員、そして途方もない時間が必要となります。
明治政府にそのような建設費を賄える財政力はなかったと考えられ、同時に近代化を政策として掲げていた以上、鉄道の建設は急務だったので、碓氷峠のために時間をかけることは難しかったと考えられます。
鉄道で急勾配を越えるための方法として、ループ線やスイッチバックという方法もあります。ループ線は上越線で、スイッチバックは中央東線や、有名なところでは箱根登山鉄道(現在の小田急箱根鉄道線)で採用されている方法です。
最大80パーミルという碓氷峠を遙かに超える急勾配を擁する箱根登山鉄道(現在の小田急箱根)は、粘着式鉄道でこれを克服するために、途中、塔ノ沢駅と出山信号場、大平台駅、上大平台信号場の4か所でスイッチバックを設けている。(パブリックドメイン)
しかし、碓氷峠の地形は、それでも鉄道の建設を困難にしてしまうほど、険しい地形だったのです。
ループ線にしろ、スイッチバックにしろ、それを建設するためには一定程度の広さが必要です。例えば、上越線のループ線は湯檜曽駅と土合駅の間にありますが、その多くはトンネルの中に建設されました。トンネルの抗口前後にはそれなりの広い土地もあり、勾配は20パーミルと碓氷峠と比べれば緩やかです。(写真1)
スイッチバックも勾配を越える方法の一つですが、やはり一定の広さが必要です。箱根登山電車にあるスイッチバックの駅や信号場は、急勾配を登るための方法として設置されています。山腹に沿って走りながら、スイッチバックをすることによって次の山へと移りながら登っていきます。箱根登山電車は最大で80パーミルと、碓氷峠をはるかに超える険しい勾配ですが、1両あたりの全長が短いことと、1列車の編成も最大で3両編成であることから、天下の険とも言われる箱根の狭隘な地でもスイッチバックによる登坂が可能だったといえます。
いずれの方法でも、碓氷峠の地理的な条件では不可能であったため、断念せざるを得ませんでした。粘着式鉄道では限度を超える勾配と、あまりにも険しく狭隘な地理的条件から、横川駅から軽井沢駅までラック式鉄道で建設されました。
《次回へつづく》
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