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第二次世界大戦が終わり、戦後の混乱も落ち着き始めた1955年頃から、日本は高度経済成長と呼ばれる空前の経済成長を遂げることになりました。戦後の復興、そしてこの経済成長とともに、都市部、特に東京を中心とした首都圏に人口の流入が続き、人口過密地帯が形成されていきました。
都市部の人口過密化は、鉄道にも大きな影響を及ぼしました。特に首都圏と大阪を中心とする関西圏では、近郊に住む人々が都心部にある勤め先などへ多くの人が向かうために、通勤時間帯の混雑は想定を遥かに上回るほどになり、「通勤地獄」と呼ばれるほど熾烈なものとなりました。
この当時、首都圏の国鉄線では、総武本線が312%、東北本線が307%、中央本線が279%、そして常磐線が274%という混雑率を記録し、社会問題にまで発展していました。
当然、この時間帯になると非常に多くの人が駅に詰めかけ、ホームには列車を待つ人々で足の踏み場もないほどごった返していました。そして、列車が到着するやただでさえ満員状態の車内に、何としてでも乗り込もうとする姿が記録映像で見ることができます。鉄道事業者も、何が何でも乗せようとするため、駅のホームには輸送業務を司る正規職員の駅員(輸送掛)のほかに、乗客を車内に「押し込む」ことを専門の業務とするいわゆる「尻押し隊」とも呼ばれた、アルバイトの駅員を雇うなどの対応をしていました。
この異常ともいえる混雑は、前述の通り都心部に人口が過度に集中したことが原因でした。そして、当時の国鉄線はそうした異常な混雑に対して、戦前からの輸送体系を引き継いだままで、これに対応できる輸送体制でなかったことが挙げられます。
例えば、総武本線と中央本線は、沿線には終戦直後の頃まであまり多くの人が住んでいませんでした。のどかな田園風景が広がり、駅の周辺にこそ人家はあるものの、駅と駅の間には人家も少なくともすると田畑が残っているところが多かったようです。
しかし、地方農村部から急激に人口が流入すると、都心部にはもはや新たに人が住むことができる土地はほとんどなく、まだまだ未開に近かったこれらの郊外に急速に人家が建てられ、都市部にやってきた人々の多くが住むようになります。
当然、これらの人々の多くは、仕事を求めて都市部にやってきたのですから、郊外に住んだとしても都心部にある勤め先に通うことになります。そして、移動の手段として鉄道が使われるのは当たり前の話であり、通勤時間帯になれば多くの人が鉄道に押し寄せてきたのです。
他方、鉄道はというと、戦前からの輸送体系のままでした。都心部の通勤路線でもあるため、既に電化はされており、そこで運用される車両も電車でした。といっても、今日のように高性能で加速も減速もよく、高速で走ることができるようなものではなく、吊り掛け駆動の鈍重な車両が走っていました。

戦時中の輸送力増強を目的に設計・製造され、戦時設計由来の粗悪ぶりから悪名高い63系は、20m級車体4ドア車という通勤形電車の基礎を築いた。桜木町事故を契機に改良が施され、72系に改められた後は国電区間で使われるべく量産された。しかし、吊り掛け駆動方式と自動空気ブレーキの組み合わせは、戦前製の省形電車の基本設計はそのままであり、混雑が激化する大都市圏の通勤輸送を支えるには限界があった。新性能電車となる101系が登場するものの、それでも沿線の急激な人口増加とそれに伴う混雑率の悪化の前に、車両の性能を上げることでは対処できなくなっていた。首都圏で最後まで残った72系は鶴見線で、それも都心部に新形式が投入されると、押し出されるようにして弁天橋電車区(→鶴見線営業所→中原電車区→鎌倉車両センター中原支所)にやってきた101系に置き換えられていった。(©Shellparakeet, CC0, via Wikimedia Commons)
《次回へつづく》
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