旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から たった1つの駅のためにつくられたサイレントディーゼル・DE11 2000番代【2】

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《前回のつづきから》

 

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 神奈川県内にある東海道本線の貨物輸送の拠点は、横浜港に隣接した横浜港駅や高島駅、山下埠頭駅などがありました。いずれも高島線と呼ばれる支線にあり、神戸方への輸送には難がありました。また、横浜以西と東京より北の地域へ列車を直通させるにも高島線は使い勝手が悪く、列車の到達時間を長くする要因の一つでした。

 また、本線にある貨物取扱駅は保土ヶ谷駅でしたが、それほど広い構内ではないため、すでに始まっていたコンテナ輸送に対応するには、さらに拡張する必要がありました。しかし、横浜の中心部に近いため、そのような土地はほとんどないため、拡張は困難でした。加えて、首都圏の人口増加によって、東海道本線横須賀線の輸送力は逼迫していて、SM分離と呼ばれる東海道本線横須賀線の分離運転を実施したことから、保土ヶ谷駅自体が貨物取扱は困難になっていました。

 さらに、東京以北と以南の小荷物・郵便輸送も、汐留駅では効率が悪いことや、汐留駅自体が手狭で施設設備も老朽化していたこと、都心部のダイヤが過密になり、荷物列車の運転が難しくなっていたことから、郊外地である横浜市内に新たな小荷物・貨物輸送の拠点となる駅を設置することにしました。

 しかし横浜市といえば、政令指定都市の中でも最も人口が多く、300万人以上の人々が住んでいます。人口密度も1平方キロメートルあたり8,000人以上が住む過密都市の一つで、そこに広大な土地を必要とする貨物駅を建設するということは、極端な話、住宅地のど真ん中に駅をつくるようなものでした。国鉄もそんな人口密集地帯に住んでいる人を立ち退かせてまで新たな駅をつくることはせず、過密ダイヤになっていた東海道本線の別線となる貨物線を建設し、その途中に駅を設置することにしました。

 その場所は、横浜の中心地よりほど近く、道路の整備状況もよく、そして人口密集地帯ではないところとして、神奈川区の北部にある丘陵地を選びました。その丘陵地が羽沢町(はざわちょう)と呼ばれる場所で、当時はあまり住宅もなく、木々が生い茂る丘陵地でした。もっとも、第三京浜道路の開通によって、この地域も少しずつ変化していたようですが、近隣には農業地も多くあるなど、建設コストを抑えたい国鉄にとっては好条件だったようです。

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【写真1】

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【写真2】

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【写真3】

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【写真4】

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【写真5】

横浜羽沢駅周辺の航空写真による変遷。【写真1】は戦後間もない1947年頃に、米軍偵察機によるもの。主要幹線道路がなんとか識別できるほどで、ほとんどが農地であり、民家はほとんどない。【写真2】は横浜羽沢駅建設前夜ともいえる1967年に撮影されたもの。この頃には第三京浜道路が開通し、保土ヶ谷料金所の姿も見て取れる。第三京浜に交差している鉄道は東海道新幹線。【写真3】は横浜羽沢駅開業直後の1977年に撮影されたもの。丘陵地の谷戸となっていた部分に巨大な貨物駅が作られたことが分かる。1967年の写真では見られなかったが、10年の間に周辺には住宅が建設されていることがわかる。【写真5】は筆者が勤務していた時代にほぼ近い、1988年に撮影されたもの。コンテナホームには水色のコンテナが並んでいる様子が見て取れる。駅周辺の宅地化は少しずつではあるが進んでいる様子が分かる。【写真5】はもっとも新しい2019年に撮影されたもの。コンテナホームは整備されてE&S方式に移行し、人道跨線橋下まで延長されている。また、駅の北西側には相鉄線・JR直通線の羽沢横浜国大駅の駅舎の姿も見え、環状2号線道路も高規格道路として開通済である。いずれにしても、かつては農業地帯だったこの地域も、横浜市の人口増加の波とともに宅地化がゆっくりではあるが進行し、近隣には団地やさらには戸建て住宅がひしめくようになり、谷戸という地形から貨車の入換で発生するディーゼルエンジンの音は反響し合い、かなりの騒音になることが予想される。そのため、何としてもこの地に貨物駅を開業させたい国鉄は、住宅地内での運用に特化した性能をもつ機関車の開発という、国鉄機関車史上稀に見る「特定の駅のため」だけの機関車を開発するに至った。(いずれも国土地理院地図・空中写真サービスから引用。一部は筆者が写真を合成加工)

 

 こうして貨物駅建設が事業化されると、国鉄は駅建設予定地とした土地の買収を始めることになります。しかし、いくら未開の地が多いとはいえ、地域の住民すべてが賛成したわけではありませんでした。それは、駅建設予定地となる土地には農業を営む人達が住み、さらに現在の駅南側にある釜台地区には住宅も立ち並んでいたため、土地を追われることになった住民と、貨物駅ができることで騒音に悩まされることが予想された住民によって反対運動が起こったようです。*1

 実際、筆者が初めて横浜羽沢駅の構内本部にある電気区に赴任したとき、駅敷地の沿道には建設反対運動で使われたであろう、看板の跡のようなものがありました。また、助役からは「駅の近くで騒がないように」と念を押すように注意を受けた記憶があります。今考えると、駅は完成し月日が経ったとしても、反対した住民感情というのはすぐには解けるものではなく、厳しい視線が向けられているというのが現実でした。

 そして、反対運動によって国鉄はいくつかの計画変更や、住民に配慮した施策をすることになりますが、その一つが横浜羽沢駅で使われることになる入換用ディーゼル機関車でした。

 国鉄の入換用ディーゼル機関車は、黎明期のDD13や線路規格の低いローカル線でも運用できるDE10、さらには大規模操車場で重入換用に軸重を重くしたDE11がありました。特に、DE10は国鉄が製造したディーゼル機の中でも最も数多く量産された「万能機」で、DML61ZAやその改良型であるDML61ZBが醸し出す音は、かなりの激しいものです。

 実際に、DE10やDE11が走り出すときは、最大でも1100PSもの出力を絞り出すエンジンの「咆哮」はかなりのもので、運転台に乗っているときはもちろんですが、線路際で待機していたも腹に響くほど迫力のある音です。ノッチを力行から切にするときに発する音は特徴的で、「ドヒョヒョヒョ」と轟音だけでなく甲高い空気音も混ざるので、かなり大きい音になります。また、エンジン音だけでなく、車輪がレールの接続部を通過するときの「ガタンゴトン」というジョイント音は、空車の貨車であればそれほど大きくはなりませんが、もともとも重量が重い機関車や、貨物を満載にした貨車はその音が大きく、加えて振動も激しくなってしまいます。

 そこで、国鉄は住宅専用地域の中に広大な貨物駅を建設するという、前代未聞の計画を実行に移すべく、可能な限り地域の住民への騒音被害を軽減させることを目的に、大規模操車場で運用されていた重入換用機であるDE11をベースに、徹底した防音対策を施したディーゼル機を開発しました。

 

《次回へつづく》

 

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*1:

横浜市内に貨物新線建設計画が持ち上がると、計画線の沿線住民による大規模な反対運動が起きた。これは、主に神奈川区大口付近の地上高架区間において、騒音、振動、そして事故発生時に想定される被害の甚大さから起きたといわれている。基本的には地下線となる貨物新線の計画において、技術上やむを得ず地上に建設せざるを得ない区間を中心に、反対運動があった。横浜羽沢駅の建設予定地でも、これに連動した反対運動があったとされている。